その鵲は、空の裏側を知る~第7章 失われた感覚と、残された選択~

その鵲は空の裏側を知る

 目を覚ました瞬間、カケルは違和感に気づいた。

 ――静かすぎる。

 医務室の白い天井。
 消毒液の匂い。
 窓から差し込む、朝の光。
 ベッドの白いシーツ。

 見えている。
 理解できている。
 なのに――現実味がない。

「……」

 声を出した。
 確かに喉は動き、
 息も震えた。

 けれどその音は、
 空気を震わせなかった。

(……聞こえない……)

 正確には、音が“意味”としてしか存在していない。

 誰かが話せば口の動きや表情で、その内容は分かる。
 でも、声の高さも、距離も、温度も――
 すべてが欠けている。

 まるで、世界に薄いガラス板が一枚挟まったようだった。

 世界が、平たい。

 ステータスウィンドウが、淡々と現れる。

 ――【感覚遮断:聴覚(部分)】
 ――【補償処理:観測精度 上昇】

(……これが、代償)

 理解した瞬間、
 胸の奥がひどく冷えた。

 代わりに、
 視界は異様なほど澄んでいた。

 壁に走る、肉眼では見えない歪み。
 天井裏を流れる魔力の筋。
 廊下を歩く人間の、次の一歩。

 “未来”が、薄く透けて見える。

(見えすぎる……)

 怖かった。

 これ以上、何かを代償にしなければならなくなることが。

 そのとき、カーテンが静かに開いた。

 音はしない。
 だが、動きは見える。

「目、覚めた?」

 スズメだった。

 口の動きで、言葉が分かる。
 けれど、声の温度が分からない。

 いつもの、少しうるさくて、やけに明るい声の“感じ”が、ない。

「……うん」

 自分の返事も、
 どこか他人事のようだった。

 スズメは、はっきりと安堵の表情を浮かべた。

「みんな心配してたんだぞ。突然倒れるし、周りの時間が変になるし」

(時間……)

 その単語だけが、妙に胸に引っかかる。

 カケルは、ゆっくりと身体を起こした。

「俺、どれくらい……」

「丸1日」

 スズメが人差し指を立てて、数字の1を作る。
 それはまるで、カケルが音が聞こえないのを分かっているかのように……

 スズメは続けようとして、少し言葉を選ぶ。

「でもさ……他にも変なところがあるんだ……」

「カラス先生は授業を無期限休講。シラサギも、ずっと姿を見せてない」

 スズメのジェスチャーと口の動きで、話しの内容を何とか理解する。

 言葉を理解した時、胸の奥が軋んだ。

(……やっぱり……俺が壊したんだ……)

 理解した瞬間、

 医務室の扉が、はっきりと“開いた”。

 音が聞こえなくてもそれだけは分かった。

 音は感じられないが、空気の圧が変わる。

 ぬっと黒い影が部屋に入ってくる。

 カラスだ。

「……出て行け、スズメ」

 低い声が有無を言わさない。

 スズメは一瞬、何か言いたそうにカケルを見る。

 だが結局、何も言わずに出ていった。

 扉が閉まった瞬間、世界から日常が切り離された。

 カラスがベッドの横に立つ。

「体調は?」

 ぶっきらぼうにカラスが訊く。

「……全部は、聞こえません」

 カラスは一瞬だけ目を伏せた。

「聴覚か……」

 その反応で、カケルは理解した。

「……最初から、分かってたんですね」

「ああ」

 カラスの短く、迷いのない肯定にカケルは思わず拳を強く握った。

「第二層に触れた人間は、必ず何かを失う」

 知っていたなら教えてくれればいいのに。と恨みのこもった目でカラスを一睨みする。

「それでも……俺には、選択肢はあったんですか?」

 沈黙が流れる。

 長くはない。
 だが、重い沈黙の後、カラスが口を開く。

「……あった」

 聞こえない音の中でも分かる。
 きっとこの声はか細い声だと。

「だが、それはもう残っていない」

 胸が、冷え切る。

 まるで氷のように冷たく。

「じゃあ俺は――」

「世界に協力するか」

 カケルを遮るようにカラスは続ける。

「あるいは―― 世界に敵対するか」

 カラスが言い終えたその瞬間、視界の端で警告が瞬いた。

 ――【選択フェーズ 接近】

「協力すれば?」

「失う感覚は、管理下で制御される。段階的にだ」

「……敵対したら」

「急激に失う。最悪――人格が保てなくなる」

 脅しではない。

 それが事実だと、
 《エラー検知》が告げている。

「でも……」

 カケルは、深く息を吸った。

「協力したら……この世界は、そのまま続くんですよね」

「そうだ」

 さも当然と言わんばかりに、カラスが断言する。

「切り捨てられる世界も、救われない人も、変わらない。そういうことですね?」

 カラスは答えない。

 沈黙が、答えだった。

「……シラサギは?」

 その名に、カラスの目が、わずかに揺れた。

「彼女は、境界に立っている」

「いずれ、お前と同じ選択を迫られる」

 カケルは、ベッドの端に手を置く。

 感覚は減った。
 怖さもある。

 それでも。

 世界の歪みが、はっきりと見える。

 その歪みの向こうで、何も知らずに生きている人たちも。

「……俺は」

 言葉にする前に、
 ステータスウィンドウが更新される。

 ――【選択可能時間:残り 72:00:00】

 カケルは、顔を上げた。

「俺は、自分で決めます」

 協力か、敵対か。
 救済か、破壊か。

 最弱の鳥は、
 失った感覚の代わりに――

 選ぶ権利を、確かに手にしていた。

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