朝の教室は、どこか落ち着かなかった。
いつもなら、机を叩く音や笑い声で満ちているはずなのに、今日は違う。
声が、小さい。
動きが、ぎこちない。
理由は、ひとつしかない。
「今日らしいよ」
「まじで?」
「抜き打ちって言ってた」
持ち物検査。
誰が対象なのか。
何を探しているのか。
正確なことは誰も知らない。
だからこそ、クラス全体が、薄い不安に包まれていた。
……いや。
俺だけは、はっきりと知っていた。
対象は、たぶん俺だ。
机の中に入っているノートの感触が、やけに生々しい。
教科書の裏。
プリントの束の下。
触れればすぐに、そこにあるとわかる位置。
完璧に隠しているわけじゃない。
むしろ、あえてそうしている。
見つかる可能性を、拒絶していない。
――それが、昨日の俺の選択だった。
「……おはよ」
隣の席に、スズランが座る。
声は、いつも通りだった。
少しだけ眠そうで、少しだけ柔らかい。
でも、目だけは違った。
最近、何かを測るような視線を向けてくることが増えている。
「おはよう」
それだけ返す。
それ以上、何も言えなかった。
もし、今日のことを知っているかもしれない。
もし、知らなくても、これから知るかもしれない。
どちらにしても、
今までみたいに、普通に話していい気がしなかった。
「……なんか、緊張してる?」
スズランが、ぽつりと聞く。
「みんな、そうだろ」
「そっか」
それ以上、踏み込んではこなかった。
でも、その距離が、逆に苦しかった。
――ごめん。
心の中でだけ、そう呟いた。
何に対してなのかは、わからない。
●
チャイムが鳴る。
担任のミモザと、学年主任のアイリスが、同時に教室に入ってきた。
空気が、はっきりと変わる。
ざわつきが、一瞬で消える。
「おはようございます」
アイリスの声は、静かだった。
けれど、教室の全員が背筋を伸ばす。
「今日は、少し時間を取ります」
黒板の前に立ち、クラス全体を見渡す。
「トラブル防止のため、全員の持ち物を確認させてもらいます」
誰も、声を出さなかった。
出せなかった。
「これは、誰かを疑うためのものではありません」
その言葉は、きれいだった。
でも、
この場にいる全員が、直感的に理解していた。
――これは、“誰か”のための検査だ。
「カバンと、机の中身を、順番に見ていきます」
ミモザが補足する。
その声は、どこか硬かった。
「個人の尊厳には配慮します。
ですが、協力してください」
クラスの空気が、さらに重くなる。
前の列から、順番に始まった。
一人ずつ、机の中身を出す。
カバンを開ける。
教師が、それを確認する。
ただ、それだけの光景のはずなのに、
やけに長く感じた。
誰かのペンケース。
誰かの漫画。
誰かの忘れ物。
教師の手が、それらをめくり、戻す。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
そして、少しずつ、列が近づいてくる。
俺の番が、確実に近づいてくる。
心臓の音が、やけに大きい。
隣では、スズランが、静かに前を見ている。
何を考えているのか、わからない。
……わからない方が、楽だった。
「……次」
アイリスの声。
前の席の生徒が、机を閉じる。
そして。
アイリスの視線が、俺の机に向く。
「アスターくん」
名前を呼ばれる。
たったそれだけで、空気が変わる。
クラスの中の、いくつもの視線が、こちらに集まるのがわかる。
立ち上がる。
机の中から、教科書、ノート、プリントを、順番に出していく。
最後に残るのは――
あの、黒い表紙のノート。
指先が、それに触れる。
一瞬だけ、ためらう。
でも、引っ込めなかった。
机の上に、すべてを並べる。
教師の手が、ひとつひとつを確認していく。
教科書。
問題集。
連絡帳。
そして。
最後に残ったのが、そのノートだった。
黒い、何の飾りもない表紙。
市販の、ただのノートにしか見えない。
……はずなのに。
なぜか、それだけが、異様に目立っていた。
アイリスの指先が、止まる。
ほんの一瞬。
たった、それだけの“間”。
でも、その沈黙は、
今までのどの瞬間よりも長く感じた。
そして――
アイリスが、そのノートに、指をかける。
持ち上げる。
ページを開く、直前の位置で。
その瞬間、
なぜか、教室の音が、すべて消えたように感じた。
誰も、何も言っていないのに。
何も、まだ読まれていないのに。
俺には、はっきりとわかった。
――ああ。
――ここで、終わるんだ。
アイリスの指先が、
ノートの表紙を、わずかに持ち上げる。
紙が擦れる、ごく小さな音がした。

