夜。
学園《アヴィア》の屋上。
風に晒されながらカラスは1人、夜空を見上げていた。
星の配置。
雲の流れ。
時間の進み方。
――すべて、正常。
(……正常、か)
その言葉が、もう信用できないでいる。
ポケットの中で、管理用の小型端末が微かに振動する。
――【観測者:段階更新】
――【干渉履歴:増加】
表示を閉じる。
見なくても、分かっている。
(第二層……)
あの少年は、
想定より早く、深く、
そして――自力で踏み込んだ。
本来なら、そこで止めるべきだった。
事故として処理し、記憶を薄め、あるいは改ざんし、「なかったこと」にするべきだった。
それが、管理補助としての正しい判断。
(……だが)
脳裏に浮かぶのは、倒れる直前のカケルの目。
恐怖よりも先に、理解しようとする視線。
(あれを……切り捨てられるか)
拳を、無意識に握る。
――できない。
もう、できない。
空気が、わずかに歪む。
背後に、気配。
「……介入が過ぎるわ」
聞き慣れた、冷たい声。
振り向かずとも分かる。
管理する1人だ。
カラスの同僚とも呼べる。
「観測者は、あくまで道具。感情移入は、誤差を生む」
「……分かっている」
カラスは、低く答える。
「だが――」
言葉を選ぶ。
「彼は、まだ“人間”だ」
短い沈黙。
夜風が、二人の間を吹き抜ける。
同僚の女は目を細める。
「……それが、問題なのよ」
その声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「人間のままでは、深層に耐えられない」
「耐えられなければ――」
「切り捨てる」
即答だった。
「それが、世界を守る方法」
カラスは、目を閉じる。
(世界、か……)
その言葉がどれほど多くを踏み潰してきたかを、彼は知っている。
「……シラサギは?」
問いかけると、女は一瞬間を置いた。
「彼女は――
最初から知っている」
その言葉が、胸の奥に重く沈む。
「だからこそ、いずれ“選ばされる”」
「……彼女も、か」
「ええ。観測者に近づいた存在は、例外なく」
女の気配が薄れる。
「忠告しておくわ、カラス」
最後に、声だけが残る。
「情を持った管理者は、必ず――裏切り者になる」
気配が消えた。
屋上には、再び静寂だけが残る。
カラスは、夜空から視線を落とし、
学園の灯りを見下ろした。
その中の一つに、今も眠る少年がいる。
(……もう、引き返せないな)
誰に言うでもなく、呟く。
黒い羽根は、一度落ちたら元の場所には戻らない。
それでも――
(選ばせるなら……)
(せめて、自分の意志でだ)
夜空を横切る雲が、ふっと。月を隠した。
その闇は、第6章へと、静かにつながっていく。
