夜の部屋は、静かすぎた。
冷蔵庫の低い唸り。
時計の針が刻む秒の音。
それ以外、何もない。
机の上に、ノートが開かれている。
黒い表紙。
何の変哲もない、ただの大学ノート。
なのに、これ一冊が、
俺の人生も、周りの人生も、壊しかねない。
「……持ち物検査、か」
昼休み、廊下の端で聞こえた会話。
「今週中らしいよ」
「やばい人いないといいけど」
「誰が原因なんだろ」
原因が、俺だなんて。
誰も思っていない声だった。
――いや。
思っている人間も、もういる。
だからこそ、動き始めた。
教師が。
学校が。
“システム”が。
机の上のノートに、視線を落とす。
これを持っている限り、
いつか必ず、見つかる。
時間の問題だ。
じゃあ、どうする?
答えは、もう出ている。
捨てる。
燃やす。
隠す。
誰かに預ける。
選択肢はいくつもある。
でも――
どれも、同じ結末にしか見えなかった。
ノートを閉じる。
手のひらに伝わる、紙の感触。
軽い。
あまりにも軽い。
なのに、重すぎる。
ページをめくる。
そこには、今まで書いてきた名前がある。
ヒヤシンス。
カンナ。
リンドウ。
……スズラン。
助けた名前。
助けなかった名前。
迷った名前。
全部が、ここにある。
「……消せばいい、のか」
呟いてみる。
名前を、線で塗り潰す。
ページを破り取る。
証拠をなくす。
それで、俺は“普通”に戻れる?
……無理だ。
もう知ってしまったから。
誰が、いつ、どんなふうに死ぬ可能性を持っているか。
どの選択が、どの未来につながるか。
ノートを失っても、
この記憶までは消えない。
だったら。
「……なら、せめて」
ノートを、ゆっくりと引き寄せる。
新しいページを開く。
何も書かれていない、真っ白なページ。
そこに、ペンを置いた。
書くべきか。
書かざるべきか。
今までは、「起きそうなこと」を書いてきた。
起きる前に。
間に合うように。
でも、これからは違う。
もし、どうせ見つかる可能性があるなら。
もし、どうせ疑われ続けるなら。
――だったら。
俺は、書く内容を変える。
未来の記録ではなく、
自分の意思の記録にする。
ペンを走らせる。
> これは、予測ではない。
> 記録でもない。
> 俺の選択だ。
一行ずつ、書きつけていく。
> 助けるかどうかは、俺が決める。
> 世界でも、運命でもなく。
> 他人の期待でもなく。
手が、わずかに震える。
怖いのは、検査じゃない。
バレることでもない。
怖いのは――
自分が、どこまで冷たくなれるかだ。
ページの下に、最後の一文を書く。
> このノートは、正しさのためのものじゃない。
> 俺が壊れないための、言い訳だ。
ペンを置く。
書き終えたページを見つめながら、
胸の奥に、鈍い痛みが広がっていく。
……もう、戻れない。
これで、このノートは、
ただの「未来予測ツール」じゃなくなった。
俺自身の歪みを、はっきり刻んだ証拠になった。
誰かに見られたら、終わる。
社会的にも、精神的にも。
それでも。
「……それでも、俺が決める」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
机の引き出しを開ける。
ノートを、奥の奥に押し込む。
雑誌の下。
教科書の裏。
一番手前には、何でもないプリントの束。
完璧な隠し場所じゃない。
でも、今までとは違う。
“守るために隠す”のではなく、
“覚悟を持って持ち続ける”ために、しまった。
部屋の電気を消す。
暗闇の中で、天井を見つめる。
もし、このまま検査で見つかったら。
もし、教師に読まれたら。
もし、スズランに知られたら。
――それでも。
もう、逃げないと決めた。
この選択が正しいかどうかなんて、わからない。
たぶん、正しくなんてない。
でも。
これは、初めての「自分で選んだ行動」だった。
そして、その選択が、
確実に次の破滅を呼び込んでいることを――
アスターだけが、もう理解していた。
