放課後の教室は、もうほとんど空っぽだった。
カーテン越しの夕陽が、机の角を鈍く光らせている。
誰もいないはずの空間なのに、息が詰まるように静かだった。
「……帰らないの?」
背後から、声がした。
振り返らなくてもわかる。
この距離感、この声色。
ダリアだった。
「用事があるなら、先に帰ればいいだろ」
「ううん。今日は……帰らない」
足音が近づく。
俺の机の隣まで来て、止まった。
視線を感じる。
まっすぐ、逃げ場のない視線。
「ねえ、アスターくん」
「……なんだよ」
「そのノート」
心臓が、一拍だけ遅れて跳ねた。
机の中に入れてある、あのノート。
誰にも見せないように、誰にも触れさせないように、何度も位置を確かめてきたそれ。
「……何の話だ」
「とぼけなくていいよ」
ダリアは笑っていた。
いつもの、少し楽しそうな笑い方。
なのに、その声がやけに冷たかった。
「見ちゃったから。昨日、保健室の前で」
「……」
「落としそうになってたよね? 机から出すとき」
記憶が、嫌なほど鮮明に蘇る。
あのとき、確かにダリアは廊下にいた。
「……見ただけなら、わからないだろ。中身までは」
「うん、全部はわからない」
そこで、ダリアは少しだけ首を傾げた。
「でもね、“普通のノートじゃない”ってことはわかるよ」
沈黙が落ちる。
俺は何も言えなかった。
「びっしり書き込まれてた。日付と、名前と……それから、変なマーク」
「……」
「消しゴムで消して、上から書き直した跡もあった」
まるで、観察日記を読み上げるみたいに、淡々と。
「ねえ、あれってさ」
ダリアは、ゆっくりと言った。
「“未来のこと”、書いてるんでしょ?」
空気が、凍りついた。
教室の時計の秒針だけが、やけにうるさく感じる。
「……証拠は」
「ないよ。だから誰にも言ってない」
ダリアはあっさりと言った。
「でも、私は信じてる」
「……なんで」
「だって、辻褄が合いすぎてるんだもん」
机に手をついて、俺の顔を覗き込んでくる。
「怪我しそうだった子が、直前で助かってる」
「問題起こしそうだったクラスが、なぜか未然に収まってる」
「そして、その中心に、必ずアスターくんがいる」
やめろ、と言いたかった。
でも声が出なかった。
「……安心して」
ダリアは、ふっと声を柔らかくした。
「私は言わないから」
そこで初めて、俺は顔を上げた。
「……本当か?」
「うん。その代わり」
その言葉に、嫌な予感がした。
ダリアは、にっこりと微笑った。
「条件があるの」
「条件……?」
指先で、机の縁をなぞりながら言う。
「これから先、何かを“助ける”とき」
「……」
「私にも、教えて」
言葉は穏やかなのに、意味は重かった。
「一人で全部背負わないで」
「私にも、選ばせて」
選ばせて。
その一言が、胸に深く刺さった。
「アスターくんが決めてる“正解”が、本当に正しいとは限らないでしょ?」
「……」
「だったら、二人で考えたほうがいい」
理屈は、正しかった。
あまりにも正しすぎた。
だからこそ、怖かった。
「……もし、断ったら」
「そのときは――」
ダリアは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……私は、私のやり方で動くよ」
やり方、という言葉の中に、含みがあった。
それが何を意味するのか、聞くことはできなかった。
俺は、ただ机の中のノートを思い浮かべる。
あのノートがある限り、
誰かが傷つく未来を、俺は“知ってしまう”。
そして今――
その重荷を、ダリアが半分持とうとしている。
「……わかった」
ようやく、そう答えた。
ダリアの表情が、少しだけやわらかくなる。
「よかった」
その笑顔が、安心なのか、それとも別の何かなのか。
俺には、まだ判断がつかなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
この瞬間から、もう――
俺は一人じゃなくなった、ということだ。
それが救いなのか、
それとも、もっと深い地獄の始まりなのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。
