辺りは静けさに包まれていた。
月明りはない。
曇っているので星の明かりもない。
前日に降り積もった雪が足音さえも消してくれる。
彼にとってこれ程の好機はなかった。
『これは神のおぼしめしか?』
そんなことを考えながら彼は音の鳴らない雪の上を更に音を立てずに歩く。
目当ては豪華絢爛という言葉が似合う目の前の館。
『こんなお城みたいな家に住んでいるんだ。たいそうため込んでいるんだろうよ』
事前の調査で、館の住人は旅行に出かけていることが分かっている。
使用人もこの日はいない。
全ては抜かりなかった。
はずなのに……
「ちょっとアンタ! そこで何やってんのよ」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、短い銀髪に灰色の吊り上がった目がこちらを見ていた。
睨みつけているようにも見える。
館の住人……ではないはずだ。
なにしろ住人はみんな出かけていて使用人もいないはずだから。
それならばこの銀髪少女は一体何者だ?
彼の脳裏に一瞬だけだが、警察の文字が浮かび上がった。
しかし即座にそれはないと否定できた。
なぜなら、こんな幼い女の子が警察であるはずがないからだ。
まだ10代そこそこの少女。この館の住人の娘と同い年くらいだろう。
もっとも彼も同じくらいの年齢ではあるが。
『娘の友達か……』
そう見当を付けた彼がほっと安堵の息を吐く。
「アンタ! そこを動かないで!」
少女が彼に向かって叫ぶが、動くなと言われて動かない盗人がいるはずもない。
そう、彼は今夜この館に盗みに入ろうとしていたのだ。
しかし顔を見られているからには、あの娘もどうにかするしかないだろう。
『罠にはめてやる』
そう思って両手を上げて少女が来るのを待つ。
近づいたら一撃で気絶させてどっかに攫って始末しようと考えていたのだ。
しかし――
「ジリリリリリリリリリリ!」
耳をつんざくような警報ベルが辺りに鳴り響いた。
「しまった! またやっちゃった!」
その声に少女の方を振り向くと、門を乗り越えて館の敷地に侵入したのが容易に想像できた。
館の内側で門の方を見て頭を抱えている。
このままでは2人共捕まってしまう。
『いや別にあいつがどうなろうと知ったこっちゃないけど』
頭の中で自分の考えを否定する言い訳をしつつも彼は、少女の手を引いた。
「来い! 逃げるぞ!」
「え?」
戸惑いの顔を少女が見せるが構ってる余裕も暇もない。
すぐに物陰に身を潜めた。
警ら隊に見つからないように2人はぴったりくっついた。
そこで彼は改めて少女の顔をまじまじと見た。
近くで見れば見るほど分かる、綺麗な整った顔立ち。
「お、お前名前は?」
頬が赤く染まるのが暗闇の中でも分かる。
聞くつもりもなく覚えるつもりもないが、照れ隠しに少女の名前を彼は聞いた。
「もふとも。アンタは?」
少女が彼の名前を訊ねる。
正直に答える義理はない。
しかし彼はなぜか正直に答えていた。
その理由を後から考えて見ても、ただ何となくとしか思えず、理屈ではないのだと大人になってから理解した。
「ヌルヌルだ」
正直に答える自分に腹が立ち、ややぶっきらぼうに彼はそう名乗った。
これがもふともとヌルヌルの出会いだった。
●
「私が隠れる必要はなかったんじゃない?」
ほとぼりが冷めてから物陰からひょっこり顔を出し、もふともがキョトンとして言う。
「私サーシャの友達だもん」
サーシャ・モンフォデル。
ここら一帯の土地を所有し、莫大な資産を築いているロンド・モンフォデルの一人娘だ。
その資産は市民でありながら独自の警ら隊を持てるほどだ。
「あ、でもサーシャのパパとママに見つかったら怒られてたかもね」
シシシ。と笑うもふともは何度か既に怒られた経験があるのだろう。
大富豪の友達なのだからきっと、もふとももそこそこの資産家の娘なんだろうが、どうも着ている服がみすぼらしい。
「お前、本当にあの館の住人の友達なのか?」
薄汚い通りを子供2人で歩きながらヌルヌルが言う。
ヌルヌルはもふとも以上にみすぼらしい恰好をしていた。
そしてこの薄汚い通りの住人は皆、みすぼらしい恰好をしていた。
「本当だよー? でもね。私はビンボーだからサーシャと会っちゃいけないんだって。ビンボーが移っちゃうんだって。知ってた? ビンボーって移るんだよ?」
一瞬悲しそうな表情を見せたが、すぐにもふともはいつもの取って付けたような笑顔をヌルヌルに見せた。
この薄汚い通りに一緒に帰っていることで、もふともの家が貧乏であることはヌルヌルに予想できていた。
2人は無言のままそれぞれの家に帰って行った。
●
それからというもの、もふともとヌルヌルは年が近く家もおそらく近所だろうということで、毎日のように会っては遊んでいた。
サーシャの館はあの事件以来、更に警備が厳重になりもう二度と近づけないのではないかと思われた。
時折もふともが、両親と楽しそうにお喋りをしている子供の姿を見て寂しそうな表情をしているのを、ヌルヌルは気が付いた。
「お前の親って何してんの?」
もしやと思ってヌルヌルが問うと、予想通りの答えが返ってきた。
「いない。私孤児院で過ごしてるの」
「俺もいねぇよ。同じだな。俺の親はさ、金がなくて子供の俺を捨てたんだ。だからあの館に盗みに入ってお金持ちになれば親とまた暮らせるかなって思ったんだよ。単純だろ?」
この薄汚い通りには大小さまざま孤児院が10はあった。
メイン通りには華やかなお店や綺麗な家々が建ち並ぶが、奥へ行くとこの通りのように家すら持てない人で溢れている。
この街は貧富の差が激しいのだ。
更にお金を持っていないことは、人権がないに等しいという考えを全員が持っている。
故に、モンスターが街に侵入してきても貧困区は誰も守ってくれないし見向きもしない。
それどころか裕福区の人間は貧困区がなくなればいいとさえ思っている。
「サーシャはね。この地区出身なの」
ポツリともふともが言う。
よくある話だ。
子供ができない資産家の夫婦が子供を養子にする。
その子供がたまたまもふともと同じ孤児院にいただけの話しだ。
しかしこの街は特殊だ。
金がないのは人権がない。金が全て。資産家の子供が実は血の繋がっていない子供だというだけでも十分に資産家からは都合が悪い。
その上、その子供が貧困区出身だったなんて知れたらその信用は地に落ちる。
いくらお金があってももうどうすることもできない。
いや、それどころか仕事はなくなり物も売って貰えなくなるだろう。
いずれは貧困区へ移動することになってしまう。
つまり、ロンド・モンフォデルからすると、サーシャの昔の友達はいらないのだ。
サーシャにもそのように教育をしているし、ネズミが侵入しないように警ら隊まで組織している。
おかげでもふともは一度もサーシャに会えていなかった。
「やっぱり金か……どこへ行っても金金金だ!」」
ヌルヌルはもふともの話しを聞くと、怒りに肩を震わせて自分の孤児院へと帰って行った。
そんな姿を見てもふともはふふふ。と微笑んだ。
●
「お帰りヌルヌル君」
孤児院の院長が満面の笑みでヌルヌルを出迎えた。
今までにこんなことは一度もなかった。
何か嫌な予感がヌルヌルにはしていたが、その予想は違いヌルヌルの身元を引き受けたいという富豪が現れたのだ。
今すぐにというわけではないが、ヌルヌルは近い将来裕福区へと移住することになるだろう。
それはもふともとの別れを意味する。
「身分の差というのがこの世界にはあるんだよヌルヌル君。きみは勝ち組だ。力がある者、金がある者、人望がある者、何か才能がある者が勝ちあがるようにこの世界はできている」
院長はそう言って、教養に使いなさいと難しい本を幾冊かヌルヌルに渡した。
身分の差。それはヌルヌルにも分かっていた。
『ずっと願っていたことじゃないか。勝ち組になってあの区域に住めばいつか本当の両親を一緒に住まわせることだって叶うかもしれない』
脳裏の浮かぶもふともの笑顔を振り切るように、ヌルヌルは自分にそう言い聞かせた。
ヌルヌルがそんな状況になっている頃、もふともは別の孤児院でいつも通りの扱いを受けていた。
「おい男女! さっさと飯を作れ!」
1人の男の子がもふともに言う。
もふともよりも3つくらい年齢は上だろうか。
もふともが短い髪の毛をしていることで、女の癖にといういじめが院内で勃発している。
院長は問題が大事にならなければいいと、このことを見て見ぬふり。
むしろ院長もそのいじめに加担してストレス発散をしている。
「そうだぞ。炊事は女の仕事だといつも言っているだろう? あ、お前は女でも男でもないのか」
助態が元居た世界ならば明らかにハラスメント発言だろう。
もっともこの世界にはハラスメントなんて言葉は存在しないが……
そもそももふともは長くてきれいな銀髪だった。
それを鬱陶しいという理由だけで、同じ院の女の子に無理やり切られてしまったのだ。
それでもまだもふともの扱いはマシだった。
あの子に比べれば――
「おい肉袋」
1人の男の子がそう呼ぶと、生気を失ったような顔の女の子がビクリと反応した。
「な、なに?」
おどおどして返事をするが、男の子はその返事が気に入らなかったようだ。
「なんで敬語使わないの?」
ただそれだけのことで顔を殴られた。
院長の目の前での行為だが院長は何の咎めもしない。
それどころか……
「肉袋。脱げ」
院長が命じると、いつものこととばかりに女の子は薄汚れた服を脱ぎ始めた。
この院では、生贄と呼ばれる女の子が何人かいる。
院長や他の先生の欲求を満たすのを目的としている。
当然それに興味がある他の男の子の相手もさせられる。
いじめこそはあれど、もふともの地位はまだそこまで落ちてはいなかった。
「逆らったから後悔処刑だ。みんなの前でヤられろ」
院長のその言葉に男の子たちがみんな喜ぶ。
決して逆らったわけではない。
ただ返事をしただけだ。
そんな異常がここでは平気に繰り返されている。
これがこの施設での通常だった。
この日は院長の腹の虫がこれでは収まらなかった。
というのも、ロンド・モンフォデルから正式に苦情が寄せられたのだ。
誰かは不明だが(ロンド・モンフォデルが知っていたらおかしいからだろう)、館内に侵入した者がいる。調べた結果、ここの施設の者だったという内容だ。
もふともがサーシャに会おうと侵入したのはもうだいぶ前のことなのに、今になって抗議文を寄せるとは、金持ちの考えることはいやはやよく分からないものである。
そして院長はこの犯人が誰なのかを知っていた。
もふともが大々的に公言していたし、サーシャはこの施設でもふともと最も仲良くしていたからだ。
「男女! お前もああなるか?」
院長が生贄の女の子のことを顎で指す。
もふともは、ぶんぶんと首を横に必死に振る。
「ふん! 誰もお前みたいな女の体に興味はないわ! だがな、俺様に恥をかかせ、迷惑をかけたのは事実だ。お前みたいなやつを好きなタイプもいてな? それをマニアって呼ぶんだぜ? よかったな。ようやく女の喜びを知れるじゃねーか。これで男女を卒業できるな」
ニタァ。と院長が笑い、今度もふともを気に入った男に会わせてやると脅した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
もふともは背筋が凍るような感覚を我慢して土下座して謝る。
院長はそんなもふともを椅子として使い、数時間そのままでいてようやく満足したようだ。
「次俺に逆らったら本当にその男の元にお前を売るからな!」
最後にもふともに唾を吐きかけて院長は自分の部屋へと帰って行った。
●
翌日。
もふともはいつもヌルヌルと遊んでいる公園へ向かったが、この日からヌルヌルはもふともの目の前に現れなくなった。
ヌルヌルは資産家に引き取られ、自分の両親も一緒に暮らすため、貧乏な者との付き合いを辞め、院長から貰った難しい本を繰り返し読んだ。
もふともは再び一人ぼっちになった。
それでも以前と変わらないだけだ。
今まではヌルヌルがいたから耐えられたいじめだったが、一人でも耐えられない程ではない。
しかしヌルヌルにとってこれは違った。
最近のいじめは、マニアに女にしてもらえというものだ。
院内で一番太っている男の子はいじめられていた。
数日間お風呂に入ることを禁じられ、服を着替えることも許されなかった。
そして、もふともはその男の子の服を手洗いさせられていた。特にキツいのが下着だった。
匂いがこの世のものとは思えなかった。
それでももふともは、マニアな男に売られるよりはマシだと思い必死にその命令を聞いた。
炊事も積極的にやったし、誰にも逆らわなくなった。
しかし――
ロンド・モンフォデルの事業があまり上手く行かなくなり、その腹いせにロンド・モンフォデルはもふともの孤児院を責めた。
そして、必ず犯人を見つけ出して相応しい罰を与えるようにと迫ったのだ。
孤児院は資産家たちの寄付金で運営している。
当然これに逆らうことはできないし、そもそも逆らうつもりもない。
「残念だな男女。必死にみんなに取り入っていたのにお前は売られることになる」
意地の悪い笑みを浮かべて院長は、小太りの禿げあがったおじさんにもふともを差し出した。
逃げることができないもふともは、そのおじさんに手を引かれる形で孤児院を後にした。
偶然にも、そんなもふともの姿をヌルヌルは目撃した。
ヌルヌルもまた、この日孤児院を後にしていたのだった。
違うのはヌルヌルは資産家に、もふともはただの変態に引き取られたということ。
真っすぐ前を見つめて明るい未来を夢見るヌルヌル。
俯いて未来に絶望するもふとも。
「……」
そんな2人がすれ違っても、もふともはヌルヌルに気が付きすらしなかった。
もふともはガタガタと震えていた。
「怖いかい? 大丈夫。おじさん恐怖で怯えてる子を犯すのも大好きだから」
そんな声がヌルヌルの耳に聞こえてきた。
瞬間、ヌルヌルは決意する。
明るい未来にも確かに自分の幸せはあったかもしれない。
しかし、今一番自分が誰といたいのか、誰を助けたいのかに気が付いてしまった。
それは両親でも自分自身でもなかった。
すれ違うもふともの腕を掴み、
「行くぞもふとも!」
そう叫ぶなりヌルヌルはもふともを引っ張るようにして、走り出した。
この先子供の2人がどうやって生きていくのか、そんなことを考える余裕はヌルヌルにはなかった。
ただ今すぐこの街を飛び出し、全力でもふともを守りたい。それだけだった。
俯いていて全てに絶望し、ふさぎ込んでいたもふともには、もう何かを考える力が無くなっていた。
しかし、ヌルヌルに手を引かれ、街を駆け抜ける光景を見ていると、無色だった世界が少しずつ色づいてきた。
茶色のゴミだらけの道。緑の生垣。色とりどりの花。
「ヌルヌル!」
涙を目の端に浮かべながらもふともが強く手を握り返す。
2人はそれからずっと一緒だった。
ヌルヌルがとある事件で死んでしまうまで――
