朝の教室は、まだ静かだった。
俺は窓際の席に座り、
机の中に入れたノートの感触を、ずっと意識していた。
持ってきたのは失敗だったかもしれない。
でも、家に置いておくのも、怖かった。
――書いてあることが、あまりにも現実すぎて。
「おはよ、アスター」
背後から声。
振り返らなくても、分かる。
「……おはよう」
ダリアだった。
机の横に立って、
いつも通りの距離で、いつも通りに笑っている。
「今日、早いね」
「たまたま」
「ふーん」
間延びした返事。
視線が、俺じゃなく――机の中に向いている。
嫌な予感が、背骨をなぞった。
「それ、なに?」
ダリアが言った。
「……なにって」
「鞄じゃないよ。机の中」
心臓が、はっきりと音を立てた。
俺は、答えない。
ダリアは気にしない。
勝手に、しゃがみ込む。
「ちょ、やめろ――」
言い終わる前に、
彼女の指が、ノートの端をつまんでいた。
引き抜かれる。
ページが、ぱらりと開く。
「……へえ」
ダリアの声が、ほんの少しだけ低くなった。
最悪だ。
見られた。
条件。
名前。
印。
優先順位をつけようとした、あのページ。
「これさ」
ダリアは、ページをめくりながら言う。
「思ったより、ずっと具体的なんだね」
「返せ」
手を伸ばす。
でも、ダリアはひょいと避ける。
「スズラン、モモ、私」
名前を、順番に読み上げる。
笑っていない。
「……これ、なに?」
問い方が、変わった。
からかいじゃない。
探りでもない。
確認だ。
「お前には関係ない」
「あるよ」
即答だった。
「だってここに、私の名前あるもん」
視線が、真っ直ぐ刺さる。
「これ、どういう意味?」
空気が、張りつめる。
周囲にはまだ、誰もいない。
逃げ場も、ごまかしも、ない。
「……予測だ」
ようやく、それだけ言った。
「何の?」
「……未来の」
ダリアは、じっと俺を見ていた。
数秒。
それから、ノートを閉じる。
表情が、読めない。
「そっか」
小さく、そう言った。
「じゃあさ」
一歩、近づいてくる。
「私は、どの未来なの?」
言葉が、出なかった。
ダリアは、俺の沈黙を見て、理解したように目を細める。
「あー……なるほど」
苦笑に近い笑み。
「これ、“選別表”なんだ」
核心を突かれて、背中が冷たくなる。
「誰を優先して、
誰を後回しにするか」
ダリアは、淡々と続ける。
「……で、私は?」
問いは、柔らかい。
でも、逃げ道はない。
「教えてよ、アスター」
声が、わずかに低い。
「私は……どっち側?」
その瞬間。
視界の端で、
ダリアの周囲にある光が、かすかに脈打った。
反応している。
この会話そのものに。
俺は、理解する。
――知られてはいけなかった。
――選択は、共有されるものじゃない。
ダリアは、まだ俺を見ている。
答えを、待っている。
でも、俺は言えない。
言った瞬間、
彼女が「選ばれた側」でも「選ばれなかった側」でも、
フラグは、確実に動く。
沈黙が、答えだった。
ダリアは、ふっと息を吐く。
「そっか」
さっきと同じ言葉。
でも、今度は意味が違う。
ノートを、机の上に置く。
「……ごめんね」
謝るような声。
けれど、その目は、どこか決定的だった。
「やっぱり、
ひとりでやらせちゃだめだわ、これ」
背筋が、凍る。
「……何をする気だ」
ダリアは、微笑った。
いつもの、軽い笑み。
でも、その奥にあるのは――
覚悟だった。
「踏み込むって言ったでしょ?」
くるりと背を向ける。
「もう、戻れないみたいだから」
教室のドアに手をかけて、振り返る。
「安心して」
どこか優しい声で。
「あなたが選ぶ前に、
私も選ぶから」
そう言って、ダリアは出ていった。
教室に、俺だけが残る。
机の上のノートを、見下ろす。
たった数ページの紙切れが、
今や、爆弾みたいに見えた。
――見られた。
――知られた。
――共有された。
これはもう、
俺一人の物語じゃない。
世界が、また一段階、形を変えた。
