休憩スペースの空気はいつも通り静かだった。
リシェリアは窓際の席に座り、ぼんやりと外を見ていた。
カップはすでに空だ。
「……今日も何もしてないな、私」
自嘲気味に笑ったその時。
入口の扉が静かに開いた。
「……あ」
聞き覚えのある足音だった。
重くもなく、軽すぎもしない。
迷いながら、それでもまっすぐに進んでくる足音。
顔を上げる前から分かってしまった。
「……マジか」
小さく呟いた。
やがてその人物が視界に入る。
剣と指名を背負い、少し疲れた顔をした青年だ。
ふとリシェリアは、青年の顔がどこか柔らかくなっているような気がした。
以前はもっと尖っていて、常に気を張っていた。
少なくともリシェリアが知る勇者の顔は、そんな感じだった。
そんな勇者が、リシェリアを素っ頓狂な声を漏らした。
「……え」
それだけでリシェリアは吹き出しそうになった。
「……聖女、様?」
「やめて、それ」
即答だった。
「その呼び方、ここでは禁止」
勇者は少しだけ目を見開いたあと、苦笑した。
「……そっか」
そして、遠慮がちに近づいてくる。
「……えっと……」
「ここ、初めて?」
勇者がキョロキョロしながら訊く。
「いや……最近、ちょくちょく……」
気まずい沈黙が落ちる。
かつては、戦場で何度も顔を合わせた相手。
互いに「役割」を背負った状態でしか会ったことがなかった。
リシェリアは、椅子を軽く蹴った。
「……座れば?」
「あ、うん」
勇者が向かいの席に腰を下ろす。
2人の間に短い沈黙が流れた。
先に口を開いたのはリシェリアだった。
「……あんたも、逃げてきたクチ?」
勇者が、少しだけ目を伏せた。
「……逃げたっていうか……」
「……居場所、なくなってきたっていうか」
「ふーん」
リシェリアは頬杖をついた。
「世界の希望様が?」
「やめろよ……」
苦笑が返ってくる。
「……外にいるとさ」
「何してても、“勇者なら当然”って顔されるんだよ」
リシェリアの目が、わずかに細くなる。
「……分かるわ、それ」
勇者が顔を上げた。
「……え?」
「私もよ」
淡々とした声だった。
「癒せて当たり前。
優しくて当たり前。
強くて当たり前。
折れないのが当然」
カップを指先でなぞる。
「……誰も、“疲れてる”って前提で話してこない」
勇者は、かける言葉が見つからなくなった。
リシェリアは、少しだけ笑った。
「……ここだけよ」
「私が何もしなくても、誰もガッカリしない場所」
勇者の喉が、わずかに動いた。
「……俺も」
ぽつりとこぼれる。
「ここにいる時だけ、なんていうか……」
「……生きてるって感じがする」
沈黙が落ちる。
だが、今度の沈黙はやけに温かかった。
しばらくして、リシェリアがぽつりと言った。
「……ねえ」
「ん?」
「この場所……広まったら、どうなると思う?」
勇者は、少し考えてからゆっくりと答えた。
「……もっと、人が来る」
「うん」
「……でも、それって……」
「……たぶん、外の世界にとっては、困ることなんじゃないか」
リシェリアは、ゆっくりと頷いた。
「だよね」
誰かが逃げ込める場所があるということは、
「役割から降りる選択肢」が生まれるということ。
それはきっと、
教会にも、王国にも、軍にも、都合が悪い。
「……でもさ」
勇者が顔を上げた。
「それでも……なくなってほしくない」
はっきりとした声だった。
リシェリアは、少しだけ目を見開いてから、小さく笑った。
「……奇遇ね」
立ち上がる。
「私もよ」
窓の外を見る。
城の中を歩く魔族たち。
休憩室でくつろぐ人々。
笑い声。
静けさ。
「……ここ。もう“魔王城”じゃないわよね」
勇者はゆっくりと頷いた。
「……うん」
リシェリアは、呟くように言った。
まるで自分に言い聞かせるように。
「……居場所、なんだと思う」
その言葉がやけに重かった。
同時にやけに優しかった。
●
玉座の間。
「……報告です」
メルキオが静かに告げる。
「聖女様と勇者様が、長時間会話を」
「……そうか」
俺はゆっくりと目を閉じた。
最悪の組み合わせだ。
世界の象徴である二人が、
“この城に安らぎを見出した”。
それはもう、娯楽ではない。
「……もう、止まらないな」
呟いた声には、覚悟が混じっていた。
居場所を作ったつもりだった。
だが、気づけばそれは、
「世界の外側にある価値観」
を育ててしまっていた。
戦わなくてもいい。
役割を果たさなくてもいい。
期待に応えなくても、生きていていい。
そんな思想が、
勇者と聖女を通して広まったら?
世界は――
確実に揺れる。
俺は静かに目を開けた。
「……だが」
後悔はなかった。
「……それでもここは守る」
たとえ世界全体を敵に回すことになっても。
この城が、
誰かの“生きていていい場所”になっている限り。
魔王としてではなく、
“居場所の主”として。
俺は、玉座に深く座り直した。

