夜明け前の空気は冷たかった。
討伐部隊の仮営地にはほとんど音がなかった。
眠っている者もいる。
眠れずただ目を閉じている者もいる。
そして――眠ることを諦めた者もいた。
若い兵士は、焚き火の前に一人座っていた。
――レイ――だ。
見た目は若く、おそらく成人しているかいないかくらいだろう。
正規軍に入ってからは3年。
訓練も、規律も、命令も、すべて真面目に守ってきた。
そうすれば、
「正しい兵士」でいられると信じていたから。
だが今は違う。
焚き火の揺れの中に、城内で見た光景が何度も蘇る。
怯えながら、それでも笑っていた人間。
泣きながら、「ここにいていいですか」と聞いていた少女。
武器を置いた元兵士が、震える手で湯を飲んでいた姿。
――あれが、悪?
答えは出ない。
いや、正確には――出てしまっていた。
だが、それを認めた瞬間、
今までの自分すべてが崩れる気がして、考えることをやめていた。
「……起きてたのか」
背後から声がした。
振り返ると、同じ隊の兵士が立っていた。
年齢は少し上。無精髭が伸びた、疲れた顔。
「……眠れなくて」
レイはそう答えた。
男は小さく笑う。
「俺もだよ」
焚き火の向かいに腰を下ろす。
「なあ……レイ」
「はい」
「……本当に、ここ……潰す必要があると思うか?」
その問いにレイの心臓が強く跳ねた。
「……それは……」
言葉が続かない。
男はレイの顔を見てすぐに察したようだった。
「……だよな」
自嘲するように息を吐く。
「俺も、思ったよ。
あそこにいたやつら……ただの民間人だろ」
「……」
その言葉を聞いても尚、レイは何も言えないでいる。
「みんな普通に笑ってたし、何て言えばいいのかわかんねぇけど、幸せそうだった。肩の力が抜けててさ、めっちゃ楽そうな感じだった。分かるか? 伝わってるか? あれが“思想汚染”って言われても、よく分からねえ」
パチリ。と焚き火の音が爆ぜる。
「ま、でもよ」
男は空を見上げながら腕を頭の後ろで組む。
「そういうこと考えてるのが上にバレたら終わりだぞ」
レイは黙って頷いた。
分かっている。
疑問を持つこと自体がもう罪なのだ。
男はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「……忘れろ」
それだけ言って、背を向けた。
「忘れないと、壊れるぞ」
その背中を見ながら、レイは思った。
――もう、壊れかけているのはどっちだろう……
●
翌朝。
討伐部隊は、再び城門前に隊列を組んでいた。
今日は、「制圧開始」の日。
後に「約束の日」と呼ばれるこの日、世界は勇者を失う。
ピリピリとした張り詰めた空気が辺り一帯を支配している。
レイの剣を握る手が、ガタガタと震えていた。
その震えは恐れなのかそれとも――
乾いた空気に、鋭い声が鳴り響く。
「第一陣、前へ!」
命令だった。
絶対だった。
それなのにレイの足は動かなかった。
「進め!」
もう一度命令が飛ぶ。
周囲の仲間たちが、一歩踏み出す。
レイだけが、取り残される。
背後から低い声が落ちた。
「……動け」
隊長だった。
レイはゆっくりと振り返る。
隊長の目には感情がなかった。
ただ、任務だけがあった。
「命令だ」
ゴクリ。とレイは生唾を飲み込んだ。
分かっている。
ここで従わなければ、自分が「敵」になる。
それでも。
城門の向こう側にいる人たちの顔が、次々と浮かんだ。
「ここにいていいんですか」と泣いていた声。
「久しぶりに、眠れました」と笑っていた声。
そのすべてを――
これから自分は、壊しに行く。
剣を握る手が、限界まで震える。
「……っ」
息が詰まる。
怖い。
何よりも、自分が何をしているのか分かってしまったことが。
「……レイ」
隊長の声が、冷たくなる。
「最後の警告だ。動け」
隊長はレイに向けて剣を構えた。
その瞬間、レイの体が、口が勝手に動いた。
「……無理です」
空気が、凍った。
カラン。と乾いた音が鳴る。
レイはガクリと膝から崩れ落ち、手にした剣を地面に落していた。
もう戦えない。心が拒絶してしまっている。
「……何?」
レイは、顔を上げた。
視界が揺れている。
足も、声も、すべてが限界だった。
「……俺……」
言葉が喉の奥で絡まる。
「……俺、あそこにいた人たちを……敵だって、思えないんです……」
周囲が完全に静まり返る。
隊長の目が、細くなった。
「……貴様、自分が何を言っているか分かっているのか」
分かっている。
分かってしまっている。
だからこそ、止まらなかった。
「……分かってます……」
声が震える。
でも止まらない。
「……でも……」
城門の方を見る。
まだ開かれていない大きな扉。
その向こうに、あの空気があることを知っている。
――あそこだけが、息ができた。
気づけば、言葉が零れていた。
「……助けて……ください……」
あまりに小さくて、あまりに弱い声。
でも、それは確かに空気を裂いた。
「……もう……正しさが分からないんです……」
誰も動かずに、レイと隊長のやり取りを見守っている。
「……戦うのが……怖いんじゃなくて……」
唇が震える。
「……誰かを、また……追い詰める側に戻るのが……怖いんです……」
沈黙。
完全な沈黙。
誰も動けなかった。
隊長だけが低く呟いた。
「……裏切り者が」
その言葉にレイの肩がびくりと揺れた。
だが、もう引き返せなかった。
それでも、城門の方を見たまま動かなかった。
まるで、
そこにしかもう、行き場がないと知っているかのように。
●
城壁の上。
魔族たちはその様子を静かに見ていた。
メルキオは何も言わない。
ただ、小さく目を伏せる。
あれはもう、戦闘ではない。
選択の瞬間だった。
そして――
また一人、
「世界の外側」を選ぼうとしている。
そして決定的な瞬間を見守っている。
隊長は良くも悪くも生真面目な性格をしていた。
自分の心や気持ちよりも任務、命令が絶対の仕事人間。
隊長が悪いわけではない。
誰も悪くないからこそ、全員が理解する。そして苦悩する。
「裏切り者は必要ない」
ヒュッ。という空気を切る音が辺りの静けさを破る。
隊長がレイの首を斬り落とそうとする音だ。
レイは命を諦めた。しかし、どこか誇らしかった。
自分の心に真っすぐでいられた自分に。これで悔いはない。そう思っていたのに――
ガキン!
隊長の刃を受け止めたのは勇者だった。
「俺が捕まれば大人しく退くだろ? 俺が大人しくそっちに従う変わりに、城には手を出すな」
勇者の言葉は、反論を許さない物言いがあった。
その言い方は、今まで魔王城で楽しんでいた勇者からは想像もつかない言い方だった。
討伐部隊は勇者の条件を飲み、勇者を連行して王国へと帰って行った。
ただ1人、レイだけをその場に残して……
●
こうして、第16娯楽は成立した。
最初の離反者が生まれた日。
最初の「助けてくれ」が、城門の外から向けられた日。
魔王城は、もはやただの居場所ではない。
“選ばれなかった者”を受け入れる場所から、
“世界に疑問を持った者”が辿り着く場所へと、変わり始めた。
そしてそれは同時に、
この城が、
もう後戻りできない地点に到達したことを意味していた。
レイはゆっくりと重い扉を開けた。
