最初の違和感はあまりにも些細だった。
「……ねえ、魔王様ってさ」
食堂の片隅で誰かがぽつりと呟いた。
「……本当に、私たちの味方なのかな」
声は小さかった。
誰かを扇動するような強さはない。
ただの疑問。素朴な不安の言葉。
だが――
その言葉は静かに空気に沈み、消えなかった。
●
魔王は、基本的に人前にあまり出てこない。
支配者として君臨するタイプでもなければ、演説をする存在でもない。
むしろ、必要な時にだけ現れ、あとは静かに見守っている存在だった。
だからこそ。
「……魔王様って、何を考えてるんだろうね」
「……私たちを、どうしたいんだろう」
そんな言葉がいつの間にか増えていた。
疑問自体は自然なものだ。
今までもきっと誰かは思っていたはずだ。
だが――
「口に出される頻度」が明らかに変わっていた。
●
レイは中庭の隅でその会話を聞いていた。
「……あの人って、結局……」
「……利用されてるだけじゃない?」
心臓がひどく嫌な音を立てた。
足が勝手にそちらへ向かう。
「……何の話をしてるんだ?」
声をかけると話していた2人は、はっとしたように肩を震わせた。
「……いや、その……」
「……ごめん、悪口ってわけじゃなくて……」
言い訳が曖昧だ。
レイはゆっくりと息を吐いた。
「……魔王様がいなければ俺たちは……」
「……うん、分かってる。でも……」
片方が視線を落としたまま言った。
「……分かってるけど……でも、もし……」
言葉が途中で途切れる。
その続きが怖すぎて言えない。
だが、レイには分かってしまった。
――もし、魔王が裏切ったら?
――もし、魔王が私たちを守る気なんて最初からなかったら?
言葉にならない疑念が、もうすでに芽を出していた。
●
その日の夜。
掲示板に1枚の紙が貼られていた。
誰が貼ったのかは分からない。
だが、朝にはすでに多くの人がそれを見ていた。
『魔王は本当に私たちのために動いているのか?』
たった一行。
署名もなければ、主張もない。
ただの「問い」だった。
だがそれは、あまりにも鋭かった。
人々は、立ち止まり、見つめ、何も言わずに去っていく。
誰も破らない。
誰も剥がさない。
まるで、その問いが“自分の中にもある”と認めてしまうようで。
●
メルキオは、その紙を見て静かに目を伏せた。
「……始まりましたね」
隣にいた側近が硬い声で言う。
「……あまりにも露骨です」
「ええ。だからこそ……効いてしまう」
人は、「意見」よりも「問い」に弱い。
断定されれば反発できる。
だが、問いを投げかけられると、人は自分で考え始めてしまう。
そして――
疑念という種は、一度植えられると勝手に育つ。
「……どうされますか」
「……今はまだ動きません」
メルキオは静かに答えた。
「これに過剰反応すれば、“何か隠している”と見える」
「……では」
「……耐えます」
それが最も苦しい選択だと分かっていても。
●
数日後。
魔王が久しぶりに食堂に姿を見せた。
空気が一瞬だけ張り詰める。
視線が集まる。
だが、そこにあるのはかつてのような「安心」ではなかった。
探るような目。
測るような沈黙。
距離を測る空気。
魔王はそれをすぐに察した。
……察してしまった。
それでも、何も言わずただ静かに席につく。
誰かが笑いかける。
だが、その笑顔はどこか硬い。
「……魔王様」
ひとりの少女が恐る恐る声をかけた。
「……はい?」
「……魔王様は……」
少女は、言葉を探しながら震える声で続ける。
「……私たちを、見捨てたり……しませんよね?」
その問いは無垢だった。
悪意などどこにもなかった。
だからこそ。
周囲の空気が、一気に凍りついた。
魔王は、少しだけ目を見開きそして――
ゆっくりと、微笑った。
「……もちろんです」
優しい声だった。
嘘ではない。
だが。
その答えを聞いたはずなのに、
空気は完全には和らがなかった。
●
その夜。
城の外れで、また2つの影が並んでいた。
「……効果は出ているようだな」
「ああ。“信じたい”と“疑ってしまう”の間で、皆が揺れている」
「象徴が揺らげば、居場所はもう保たない」
「……次は、どうする?」
ひとりが静かに答える。
「次は……」
「“事件”を起こす」
「事故に見せかけた決定的な亀裂を」
「人々に、“やはり魔王は危険だ”と思わせる出来事を」
●
その頃。
メルキオは、ひとりで夜の回廊を歩いていた。
窓の外には静かな城の風景。
灯りはある。
人もいる。
だが。
“安心”という空気だけが、確実に薄れていた。
「……いよいよ、ですね……」
誰にともなく呟く。
居場所は、まだ形としては残っている。
だが――
“信じる心”が、崩れ始めている。
そしてそれは、
どんな爆発よりも、どんな武器よりも、
この城にとって致命的な崩壊の始まりだった。

