どうせ勝てないので、魔王は勇者を楽しませることにしました~第21娯楽

どうせ勝てない魔王

 最初に変わったのは、空気だった。

 誰かが大声を出したわけでもない。
 喧嘩が起きたわけでもない。
 それでも、人々の声は以前より少しだけ小さくなっていた。

「……最近、変じゃない?」
「うん……なんとなく……」

 言葉は曖昧で、理由もはっきりしない。
 だが、“何かがおかしい”という感覚だけが、城中に広がっていた。

 ●

 食堂では、いつもの長机を囲んで人々が食事をしている。

 だが、視線はどこか落ち着かない。

 隣に座る相手を、ほんの一瞬だけ観察する。
 その癖が、いつの間にか誰にでも染みついていた。

「……なあ、最近よく倉庫の方にいるよな」
「え? ああ……ちょっと手伝いを……」

 たったそれだけの会話。

 だが、言われた側は微かに言葉を詰まらせた。

「……疑われてる?」

 その一言は、冗談のように小さかった。
 けれど、周囲の空気が一瞬だけ凍った。

 誰も笑わなかった。

 ●

 中庭では、子どもたちが遊んでいた。

 ……いや、正確には「遊んでいるふり」をしていた。

「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」

「ここって……なくなっちゃうの?」

 問いはあまりにも真っ直ぐで、無防備だった。

 問われた青年は、言葉を探してからゆっくりと首を振る。

「……大丈夫だよ。ここは……」
「ほんと?」

 不安げな目。

 かつてなら迷いなく言えたはずだった。

「ここは安全だ」
「ここにいればいい」

 だが今は、その言葉が喉に引っかかる。

「……うん。たぶん」

 その曖昧な返事が、子どもの胸に残したものを青年は理解していた。

 ●

 会議室。

 メルキオ、レイ、数名の中核メンバーが集まっていた。

「……最近、報告が増えてます」

 メルキオの前に並ぶ紙。

 ・人の動きへの違和感
 ・無断で立ち入り禁止区域に入った者
 ・夜間に単独行動を取る者
 ・説明が曖昧な者

 どれも決定的ではない。
 だが、“積み重なっている”。

「……これ、もう偶然じゃないだろ」

 レイが低く言う。

「……ええ」

 メルキオは静かに頷いた。

「問題は……“誰なのか”ではなく」
「……誰もが疑われ始めているという事実です」

 その言葉に室内が沈黙する。

 疑いが生まれれば、信頼が削れる。
 信頼が削れれば、居場所は居場所でなくなる。

 魔王城が守ってきたものは、建物ではない。

 「信じていい空間」そのものだった。

「……やっぱり、早めに炙り出すべきじゃないか?」
「今それをすれば、無関係な人間が壊れます」

「……でもこのままだと」
「ええ。このままだと、“全員”が壊れていく」

 どちらも正しい。

 だからこそ答えが出ない。

 ●

 その夜。

 回廊をひとり歩いていた女性が、背後から声をかけられた。

「……最近、夜遅くまで起きてるよな」

 振り返ると、そこに立っていたのはよく顔を合わせる青年だった。

「……え? そ、そうかな……」
「いや……なんとなく」

 青年の視線は、責めるようでもあり探るようでもあった。

「……疑ってるの?」

 女性がそう聞くと、青年は言葉に詰まる。

「……違う、ただ……」
「……ただ、なに?」

 沈黙。

 その沈黙が答えだった。

 女性はゆっくりと視線を落とした。

「……ここってさ」
「うん?」

「信じていい場所だったよね」

 青年は答えられなかった。

 ●

 メルキオは、その様子を遠くから見ていた。

 直接の会話は聞こえない。
 だが、空気だけで分かる。

 信頼が削れている。
 居場所が、“居場所であること”を失い始めている。

「……彼らの目的は建物じゃない」

 静かに、誰にも聞こえない声で呟いた。

「……心を壊すことだ」

 建物は修復できる。
 仕組みも立て直せる。

 だが、いったん壊れた「信頼」は、簡単には戻らない。

 だからこそ。

 敵は今、最も魔王城にとって致命的な部分を、正確に狙ってきていた。

 ●

 夜の奥で、また2つの影が並んでいた。

「……効いているようだな」
「ああ。人々の目が互いを疑い始めている」

「居場所は、信頼の上に成り立つ」
「信頼が崩れれば、場所は残っても“意味”がなくなる」

「……順調だ」
「……だが、まだ足りない」

 ひとりが、静かに言った。

「次は、“象徴”を揺らす」
「……象徴?」
「ああ。この城の精神的支柱を」

 もう1人は、しばらく沈黙したあとに小さく頷いた。

「……了解した」

 ●

 その頃。

 城の高い位置、灯りの落ちた回廊で、メルキオはひとり立ち尽くしていた。

 遠くに、まだ人の声はある。
 笑い声も、わずかには聞こえる。

 だが。

 それはもう、かつての「自然な笑い」ではなかった。

「……次はもっと深く来ますね……」

 静かに、覚悟するように呟く。

 居場所は、今なお存在している。

 だが。

 “居場所だと信じられる空気”は、
 確実に、削られ始めていた。

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