最初に変わったのは、空気だった。
誰かが大声を出したわけでもない。
喧嘩が起きたわけでもない。
それでも、人々の声は以前より少しだけ小さくなっていた。
「……最近、変じゃない?」
「うん……なんとなく……」
言葉は曖昧で、理由もはっきりしない。
だが、“何かがおかしい”という感覚だけが、城中に広がっていた。
●
食堂では、いつもの長机を囲んで人々が食事をしている。
だが、視線はどこか落ち着かない。
隣に座る相手を、ほんの一瞬だけ観察する。
その癖が、いつの間にか誰にでも染みついていた。
「……なあ、最近よく倉庫の方にいるよな」
「え? ああ……ちょっと手伝いを……」
たったそれだけの会話。
だが、言われた側は微かに言葉を詰まらせた。
「……疑われてる?」
その一言は、冗談のように小さかった。
けれど、周囲の空気が一瞬だけ凍った。
誰も笑わなかった。
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中庭では、子どもたちが遊んでいた。
……いや、正確には「遊んでいるふり」をしていた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「ここって……なくなっちゃうの?」
問いはあまりにも真っ直ぐで、無防備だった。
問われた青年は、言葉を探してからゆっくりと首を振る。
「……大丈夫だよ。ここは……」
「ほんと?」
不安げな目。
かつてなら迷いなく言えたはずだった。
「ここは安全だ」
「ここにいればいい」
だが今は、その言葉が喉に引っかかる。
「……うん。たぶん」
その曖昧な返事が、子どもの胸に残したものを青年は理解していた。
●
会議室。
メルキオ、レイ、数名の中核メンバーが集まっていた。
「……最近、報告が増えてます」
メルキオの前に並ぶ紙。
・人の動きへの違和感
・無断で立ち入り禁止区域に入った者
・夜間に単独行動を取る者
・説明が曖昧な者
どれも決定的ではない。
だが、“積み重なっている”。
「……これ、もう偶然じゃないだろ」
レイが低く言う。
「……ええ」
メルキオは静かに頷いた。
「問題は……“誰なのか”ではなく」
「……誰もが疑われ始めているという事実です」
その言葉に室内が沈黙する。
疑いが生まれれば、信頼が削れる。
信頼が削れれば、居場所は居場所でなくなる。
魔王城が守ってきたものは、建物ではない。
「信じていい空間」そのものだった。
「……やっぱり、早めに炙り出すべきじゃないか?」
「今それをすれば、無関係な人間が壊れます」
「……でもこのままだと」
「ええ。このままだと、“全員”が壊れていく」
どちらも正しい。
だからこそ答えが出ない。
●
その夜。
回廊をひとり歩いていた女性が、背後から声をかけられた。
「……最近、夜遅くまで起きてるよな」
振り返ると、そこに立っていたのはよく顔を合わせる青年だった。
「……え? そ、そうかな……」
「いや……なんとなく」
青年の視線は、責めるようでもあり探るようでもあった。
「……疑ってるの?」
女性がそう聞くと、青年は言葉に詰まる。
「……違う、ただ……」
「……ただ、なに?」
沈黙。
その沈黙が答えだった。
女性はゆっくりと視線を落とした。
「……ここってさ」
「うん?」
「信じていい場所だったよね」
青年は答えられなかった。
●
メルキオは、その様子を遠くから見ていた。
直接の会話は聞こえない。
だが、空気だけで分かる。
信頼が削れている。
居場所が、“居場所であること”を失い始めている。
「……彼らの目的は建物じゃない」
静かに、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……心を壊すことだ」
建物は修復できる。
仕組みも立て直せる。
だが、いったん壊れた「信頼」は、簡単には戻らない。
だからこそ。
敵は今、最も魔王城にとって致命的な部分を、正確に狙ってきていた。
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夜の奥で、また2つの影が並んでいた。
「……効いているようだな」
「ああ。人々の目が互いを疑い始めている」
「居場所は、信頼の上に成り立つ」
「信頼が崩れれば、場所は残っても“意味”がなくなる」
「……順調だ」
「……だが、まだ足りない」
ひとりが、静かに言った。
「次は、“象徴”を揺らす」
「……象徴?」
「ああ。この城の精神的支柱を」
もう1人は、しばらく沈黙したあとに小さく頷いた。
「……了解した」
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その頃。
城の高い位置、灯りの落ちた回廊で、メルキオはひとり立ち尽くしていた。
遠くに、まだ人の声はある。
笑い声も、わずかには聞こえる。
だが。
それはもう、かつての「自然な笑い」ではなかった。
「……次はもっと深く来ますね……」
静かに、覚悟するように呟く。
居場所は、今なお存在している。
だが。
“居場所だと信じられる空気”は、
確実に、削られ始めていた。
