朝の魔王城は、いつもより静かだった。
誰もが起きているのに、
誰もが話していない。
廊下ですれ違えば、挨拶はある。
だが、言葉は短く、目は合わない。
――昨日までは、違った。
魔王城は、
逃げてきた者たちが、ようやく肩の力を抜ける場所だった。
今は違う。
息はできるが、安心はできない。
●
最初に異変が起きたのは、炊き出し場だった。
「……量、減ってないか?」
誰かが、そう呟いた。
「いや、いつも通りだろ」
「でも、あの子……昨日より少ない」
指さされたのは、包帯を巻いた子どもだった。
前日の混乱で怪我をした、あの子だ。
「怪我人を優先しただけだ」
そう説明する魔族の声が、わずかに強張る。
「……本当に?」
疑いは、小さな棘として刺さった。
抜かれないまま、
別の誰かの口へと移っていく。
●
昼過ぎ。
今度は、倉庫で騒ぎが起きた。
「道具が壊れてる!」
「昨日は普通に使えたぞ!」
「……誰か、わざとじゃないのか?」
その言葉に、周囲が凍る。
「誰が?」
「……魔族、じゃないのか」
誰も名指ししていないのに、
視線だけが、同じ方向へ向いた。
レイは、その場に割って入った。
「待てよ!
昨日の破壊工作、まだ残ってるだけかもしれないだろ!」
「でもさ」
人間の一人が、低い声で言った。
「魔王様が“全部守った”って話、
正直……出来すぎてないか?」
レイの喉が、ひくりと鳴る。
「……何が言いたい」
「いや、別に。
ただ、もし――」
言葉は、そこで止まった。
だが、止めたのは配慮ではない。
確信が、まだ形になっていないだけだった。
●
夕方。
魔王は、城内を歩いていた。
誰かを探しているわけではない。
ただ、空気を確かめていた。
足を止めるたび、
人も魔族も、ほんの一瞬だけ身構える。
――それが答えだ。
メルキオが、静かに隣に並ぶ。
「……広がっています」
「そうだな」
「まだ暴力ではありません。
ですが、“正義”の匂いがします」
魔王は、わずかに目を伏せた。
正義。
それは、疑いを正当化する言葉。
誰かを責める時、
最も使いやすい免罪符。
「止められるか?」
「……いいえ」
メルキオは、はっきりと答えた。
「止めれば止めるほど、
“隠している”と受け取られます」
魔王は、苦笑した。
「疑われるというのは、
説明しても、黙っても、負けなのだな」
●
夜。
城の片隅で、小さな集まりができていた。
人間と、魔族。
混ざり合ってはいるが、距離はある。
「……もし、次に討伐部隊が来たら?」
誰かが言った。
「魔王様は、また守るって言うだろ」
「でも、今度は?」
沈黙。
「……今度は、
“魔王がいるから狙われた”って、
みんな思うんじゃないか?」
誰も否定しなかった。
それは、もう仮定ではなかった。
●
その夜、魔王は眠らなかった。
城の最上階で、ただ座っていた。
ここにいる全員を、守りたいと思った。
だが同時に、理解してしまった。
守る存在は、依存を生み、
依存は、やがて憎しみに変わる。
メルキオが、低く告げる。
「……次は、“原因探し”が始まります」
「怪我人か?」
「ええ。
誰かが傷ついた時、
“誰のせいか”を探し始めるでしょう」
魔王は、ゆっくりと頷いた。
「その時が……分岐点だな」
疑いが、
完全に暴力へと変わる、その直前。
第26娯楽は、そこで終わる。
まだ血は流れていない。
だが――
城の中で、確かに“刃”は研がれ始めていた。
