夕方の教室は、音が少ない。
カーテンが半分閉められていて、
西日が床に斜めの光を落としている。
スズランは、アスターの席の横に立っていた。
声をかける前から、分かっていた。
彼は、気づいている。
気づいていて、
それでも何も言わずに、ノートを閉じている。
「……アスター」
名前を呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。
目が合う。
その瞬間、スズランは確信した。
(あ、これ……決めてきた顔だ)
逃げないための決意。
そして、誰かを切るための決意。
「話、ある?」
アスターの声は、いつもより低かった。
「うん」
スズランは、正直に答える。
「さっき、ダリアと話した」
アスターの指が、わずかに強張った。
「……そう」
否定もしない。
驚きもしない。
「ねえ」
スズランは、彼の机に手を置いた。
「これ以上、私に何も言わないつもり?」
アスターは、一瞬だけ目を伏せる。
それから、はっきり言った。
「……関わるな」
短い言葉だった。
でも、教室の空気が一段冷える。
「え?」
聞き返すと、彼は同じ言葉を繰り返した。
「これ以上、来るな」
スズランの胸が、きゅっと縮む。
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味」
アスターは、感情を切り落とした声で言う。
「君は、何も知らなくていい」
「もう遅いよ」
スズランは、首を振った。
「気づいちゃった」
「……それでもだ」
アスターは、視線を逸らさない。
「これ以上踏み込むと、傷つく」
「私が?」
「君が」
はっきりとした断言。
「だから、やめろ」
スズランは、少しだけ笑った。
苦笑いに近い。
「それさ」
声が震える。
「優しさのつもり?」
アスターは、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「……私ね」
スズランは、息を吸う。
「アスターが一人で苦しんでる方が、ずっと嫌」
アスターの表情が、ほんの少し歪む。
「それに」
続ける。
「ダリアと二人で、何か決めてる顔してるの、もっと嫌」
一歩、近づく。
「私、外されたくない」
その言葉は、弱音だった。
でも、本音だった。
アスターは、拳を握る。
「……外れるしかない」
「なんで」
「巻き込めないからだ」
声が、わずかに荒くなる。
「君まで、選択の中に入れたくない」
「選択?」
スズランは、目を見開く。
「なにを選んでるの?」
アスターは、答えなかった。
代わりに、ノートに手を置く。
それだけで、十分すぎた。
「……ねえ」
スズランの声が、小さくなる。
「それ、正しいって思ってる?」
アスターは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「正しいかどうかは、どうでもいい」
スズランの喉が、詰まる。
「必要なんだ」
その一言が、何より残酷だった。
「だから」
アスターは、最後に言う。
「君は、関わるな」
拒絶。
それ以上でも、それ以下でもない。
スズランは、しばらく動けなかった。
胸の奥が、じわじわと痛む。
「……分かった」
そう言って、背を向ける。
でも、扉に手をかけたところで、立ち止まった。
「でもね、アスター」
振り返らずに言う。
「それ、守ってるつもりでも」
一拍、置く。
「一人で壊れに行ってるだけだよ」
返事はなかった。
スズランは、教室を出た。
廊下に出た瞬間、足が少し震える。
(……それでも)
関わるなと言われた。
拒まれた。
それなのに――
(……放っておけるわけ、ないじゃん)
教室に残されたアスターは、深く息を吐く。
ノートを開く。
そこには、すでにいくつかの名前が並んでいる。
彼は、まだ書かれていない空白を見つめた。
その空白が、
スズランの形をしていることに、
気づかないふりをしながら。

