紙が、わずかに擦れる音がした。
アイリスの指先が、ノートの表紙を持ち上げる。
あと少しで、ページが開かれる。
その瞬間。
「……それ、違います」
声が、教室に落ちた。
小さな声だった。
でも、なぜかはっきりと、全員の耳に届いた。
空気が、止まる。
アイリスの手が、ぴたりと止まった。
ミモザが、ゆっくりと声のした方を見る。
俺も、反射的にそちらを見た。
――スズランだった。
席に座ったまま、まっすぐ前を見ている。
震えているようには見えない。
ただ、唇だけが、強く結ばれていた。
「……スズランさん?」
ミモザが、戸惑いながら名前を呼ぶ。
「どういう意味かしら?」
スズランは、一瞬だけ視線を落とした。
それから、もう一度、顔を上げる。
「……そのノート」
指先が、俺の机の上を指した。
「危ないものじゃ、ありません」
教室が、ざわりと揺れる。
誰かが、小さく息を呑んだ。
誰かが、信じられないものを見るような目で、スズランを見る。
――なぜ、彼女がそんなことを言える?
その疑問が、教室中に浮かんでいるのが、痛いほど伝わってきた。
「……どうして、そう言えるの?」
アイリスの声は、冷静だった。
けれど、明らかに空気が変わった。
これは、ただの検査じゃなくなった。
「中身を、見たことがあるの?」
その問いに、スズランは答えなかった。
否定もしなかった。
肯定もしなかった。
ただ、少しだけ、言葉を選ぶように間を置いてから、言った。
「……少なくとも、誰かを傷つけるためのものじゃないってことは、わかります」
教室の空気が、さらに重くなる。
ミモザが、困ったように眉を寄せた。
「スズランさん、それは……推測よね?」
「……はい」
スズランは、正直に頷いた。
「でも」
視線を逸らさない。
「推測だけで、アスターを疑ってるのも、同じじゃないですか」
一瞬、言葉が止まった。
その一言は、
教師だけじゃなく、クラス全体に向けられていた。
空気が、張り詰める。
誰もが、何かを言われた気になって、何も言えなくなった。
アイリスは、ノートを持ったまま、スズランを見つめる。
「……あなたは、彼を信じているの?」
「……はい」
即答だった。
迷いのない、声だった。
俺の胸の奥で、何かが、ひどく歪んだ。
なんで、そんな顔で言えるんだ。
なんで、そんなふうに言い切れるんだ。
何も知らないくせに。
いや――知ったら、もっと否定したくなるようなことを、俺は抱えているのに。
「……信頼だけで、すべてを片付けるわけにはいきません」
アイリスの声は、どこか硬くなっていた。
「私たちは教師です。
生徒全員の安全を、守らなければならない」
「わかってます」
スズランは、頷いた。
でも、引かなかった。
「でも……それでも」
一度だけ、視線が揺れた。
ほんの一瞬だけ、俺の方を見た。
そして、また前を見る。
「……それでも、私は」
言葉が、教室に落ちる。
「アスターが、悪いことをする人だとは、思えません」
ざわめきが、今度ははっきりと起きた。
誰かが「え……」と声を漏らす。
誰かが、「なんでそこまで」と呟く。
視線が、俺とスズランの間を行き来する。
関係を測るような目。
勘繰るような目。
理解できないものを見るような目。
……最悪だ。
これ以上ないくらい、最悪の展開だった。
俺は、守りたくて、隠してきた。
誰にも背負わせないために、黙ってきた。
なのに。
今、彼女は――
何も知らないまま、俺のために、クラスと教師を敵に回している。
「……スズラン」
気づいたときには、声が出ていた。
自分でも、驚くほど、掠れていた。
スズランが、こちらを見る。
「……やめろ」
それだけ言うのが、精一杯だった。
それ以上、言葉にできなかった。
やめてくれ。
これ以上、踏み込むな。
これ以上、俺に関わるな。
そう言いたかったのに。
スズランは、首を横に振った。
小さく。
でも、はっきりと。
「……やめない」
その一言が、決定打だった。
アイリスの指が、ゆっくりとノートから離れる。
机の上に、そっと戻される。
教室が、再び静まり返る。
「……わかりました」
アイリスは、静かに言った。
「今日は、ここまでにします」
その言葉に、誰もが驚いた。
「ただし」
視線が、俺に向く。
「この件については、保留ではありません。
後日、改めて話を聞かせてもらいます」
それは、宣告だった。
先延ばしにされた審判。
猶予期間のようでいて、逃げ場のない予告。
教師たちが、教室を出ていく。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
静寂。
クラスの誰もが、何も言えずにいる。
視線だけが、痛いほど集まっている。
俺は、机の上のノートを見る。
開かれなかった。
読まれなかった。
なのに。
それ以上に、取り返しのつかないものを、失った気がしていた。
スズランの方を見る。
彼女は、まだこちらを見ていた。
怖がっていない。
疑っていない。
ただ、まっすぐな目で。
――どうして。
どうして、そんな目で見られるんだ。
俺は、君が思っているような人間じゃない。
君が信じているような、綺麗な存在じゃない。
そう、叫びたかった。
でも、声は出なかった。
代わりに、胸の奥に、ひとつだけ、確かな感覚が残っていた。
――もう、戻れない。
検査は止まった。
発覚は先延ばしになった。
それでも。
今日という日は、
確実に、すべての関係を変えてしまった。
俺とスズランの間にあった「何も知らない距離」は、もう存在しない。
クラスの中で、
俺はただの“静かなやつ”ではいられなくなった。
教師の目も、
以前より、はるかに鋭くなった。
そして何より――
スズランの中で、
俺はもう、「守る対象」になってしまった。
それが、何よりも、怖かった。

