昼休みの屋上は、やけに静かだった。
風が強いわけでもないのに、
フェンスが小さく軋む。
「スズラン、今日もズレてたよね」
開口一番、ダリアが言った。
「……見てたのか」
「ううん。感じただけ」
彼女は手すりに腰を預け、空を見上げる。
「体操服の件。
黒板の数字。
保健室の放送」
指折り数える仕草。
「三つ。
でもね、アスター」
ゆっくり、こちらを向く。
「これ、もう事故待ちじゃないよ」
胸の奥が、冷える。
「どういう意味だ」
「前まではさ」
ダリアは指先で空中に円を描く。
「“このままだと死ぬ”って未来を、
あなたが横から押し戻してた」
事故は点だった。
起きるか、起きないか。
止めるか、止めないか。
「でも今は違う」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「世界が、スズランの周りを書き換えてる」
「書き換え……?」
「帳尻合わせ」
あっさりと言う。
「死なないなら、代わりに“何か”を壊す」
言葉が、重く落ちる。
「整合性が低下してるって、ノート出たでしょ」
心臓が跳ねる。
「……どうして知ってる」
「顔に書いてある」
即答。
「あなた、隠すの下手だもん」
ダリアは笑わない。
「ねえアスター。
ズレってさ、小さいうちは可愛いけど」
一歩近づく。
「積み重なると、穴になるよ」
穴。
その単語が、妙にリアルだった。
「記憶の齟齬。
物の位置の変化。
呼ばれてない呼び出し」
彼女は淡々と並べる。
「これ、どんどん“現実の信頼度”が下がってる」
「……スズランは無自覚だ」
「だから危ないの」
即答。
「本人が気づかないまま、
周囲が壊れていく」
風が強く吹く。
フェンスが鳴る。
「事故は待てば来る」
ダリアは空を見たまま言う。
「でもこれは、待っても来ない」
「……どういうことだ」
彼女は、ゆっくりこちらを見た。
「もう“死ぬ未来”がないの」
言葉が、理解を拒む。
「未来予測が消えた。
観測不能。
分岐固定。
行動制限」
一つ一つ、突き刺す。
「ねえ。
死なないなら、どうやって世界はバランス取ると思う?」
答えられなかった。
嫌な予感だけが、膨らむ。
「簡単だよ」
ダリアは、静かに言った。
「スズランが生きる代わりに、
“現実の方”が削られていく」
背筋が凍る。
「そのうちさ」
彼女は俺の胸元を軽く指で押す。
「あなたの記憶も削れる」
「……」
「もしかしたら、もう削れてるかもね」
昨日の黒板の数字。
本当に変わっていたのか?
それとも――
「アスター」
ダリアの声が、妙に優しい。
「残り三回」
喉が、強く鳴る。
「もう、“誰を救うか”じゃない」
一歩、さらに近づく。
「どの現実を残すか」
その言葉で、すべてが変わった。
事故を止める物語は、終わった。
これからは、
削れていく世界の中で、
何を守るかを選ぶ物語だ。
「ねえ」
ダリアは、楽しそうに微笑む。
「一回、使ってみる?」
風が止む。
屋上が、妙に静かになる。
俺はポケットのペンを握った。
まだ、三回。
でも。
使わなければ、別の何かが壊れる。
世界は、もう待ってくれない。

