「ねえ、アスター」
放課後の教室。
夕日が机の上を斜めに切り取っている。
「昨日さ」
スズランは、少し首を傾げた。
「私、何してたっけ?」
ペンが止まる。
「……昨日?」
「うん。放課後」
嫌な汗が、背中を伝う。
昨日の放課後。
屋上で、
スズランは将来の話をした。
同じ街にいられたらいい、って。
電車で偶然会えたらいい、って。
あの時の表情も、声も、
俺ははっきり覚えている。
「一緒に帰っただろ」
できるだけ平静を装う。
「校門まで」
「え?」
スズランは、本気で驚いた顔をした。
「一緒に?」
胸の奥が、冷たくなる。
「帰ってないのか?」
「ううん、帰ったよ」
彼女は笑う。
「でも、クラスの子と」
世界が、音を失った。
「アスターとは話してないと思う」
柔らかい声。
責めるでも、疑うでもない。
ただ、事実を言うだけの声。
「……屋上は?」
「屋上?」
きょとん、とする。
「昨日、屋上行ってないよ?」
呼吸が浅くなる。
「将来の話、しただろ」
「え?」
スズランは、困ったように笑った。
「将来の話なんて、急にどうしたの」
覚えていない。
いや。
存在していないことになっている。
「アスター、大丈夫?」
心配そうに覗き込まれる。
「最近、変だよ?」
それは、こっちの台詞だ。
昨日の夕焼けは?
あの会話は?
“また明日”って、手を振ったのは?
全部、俺の妄想だったのか?
「私、昨日は――」
スズランは少し考える。
「図書室にいたはず」
その言葉と同時に。
脳裏に、映像が流れ込む。
図書室。
窓際の席。
本を読むスズラン。
見覚えがある。
いや、ない。
どちらだ?
頭が、ぐらりと揺れる。
「……図書室?」
声が震える。
「うん。
ね、覚えてない?」
彼女の目に、疑いはない。
むしろ、
俺が忘れていることを心配している目だ。
ポケットの中で、ペンがやけに重い。
ノートを確認したい。
でも、開くのが怖い。
「アスター?」
「……なんでもない」
絞り出す。
「俺の勘違いだ」
そう言った瞬間。
胸の奥で、何かが崩れた。
勘違いにされたのは、
俺の記憶。
屋上での会話は、
世界にとって不要だったのか?
スズランは、ほっとしたように笑う。
「よかった」
「……何が」
「アスター、最近怖い顔するから」
その無邪気さが、痛い。
「私、何か忘れてる?」
ふいに、彼女が小さく聞く。
息が止まる。
「……どうしてそう思う」
「なんとなく」
彼女は、自分の胸に手を当てる。
「空っぽな感じ、する時あるから」
その言葉で、確信した。
削れているのは、
周囲だけじゃない。
彼女の内側も、少しずつ。
ノートの灰色の文字が、脳裏に浮かぶ。
【周辺事象:整合性低下】
これはもう、
事故の代替じゃない。
存在の再構築だ。
「……スズラン」
「うん?」
「もしさ」
喉が乾く。
「何か、大事なこと忘れてたらどうする?」
彼女は少し考えて。
「また作ればいいんじゃない?」
あっさりと言った。
「記憶なくなっても、
今から増やせばいいし」
笑う。
何も知らない笑顔。
その笑顔を守ろうとして、
俺は何を削らせている?
彼女が教室を出ていく。
俺は、一人残った。
震える手で、ノートを開く。
スズランのページ。
灰色の追記が、増えていた。
【消失:会話(屋上)】
その下に、小さく。
【整合処理完了】
ページの端に、さらに一行。
【残り三回】
事故は起きていない。
誰も怪我していない。
それでも。
俺ははっきり理解した。
守ったはずの未来が、別の形で削られている。
そして。
次に消えるのが、
会話で済む保証はない。
