翌日。
何事もなかったみたいに、授業は進んでいた。
スズランは普通に笑い、普通にノートを取り、普通に過ごしている。
昨日の“屋上の会話”は、世界から消えた。
――はずだった。
「アスター」
昼休み、彼女が机の横に立つ。
「ちょっといい?」
その声が、少しだけ硬い。
屋上へ向かう階段。
昨日と同じ時間。
昨日と同じ光。
でも、ここに“昨日”はない。
「変なこと言うかもしれないけど」
スズランはフェンス越しに空を見た。
「私さ」
少し迷ってから、続ける。
「ここ、来た気がする」
心臓が止まりかける。
「昨日」
風が吹く。
髪が揺れる。
「来てない、よな」
声が掠れる。
「うん。来てない」
即答。
それでも。
「でもね」
彼女は目を細める。
「夕焼け見ながら、誰かと話した感じがするの」
空気が震える。
「内容は覚えてない。
声も、ちゃんと思い出せない」
ゆっくり、こちらを見る。
「でも」
一歩近づく。
「“大事だった”って感覚だけ残ってる」
息が、できない。
ノートを開いていないのに、
灰色の文字が増える音が聞こえる気がした。
「変だよね」
スズランは小さく笑う。
「記憶ないのに、感情だけあるの」
それは。
削りきれなかった“残滓”。
整合処理の漏れ。
「私、最近こういうの多いんだ」
胸元をぎゅっと掴む。
「空っぽだったところに、急に温度だけ戻る感じ」
その表現に、喉が焼ける。
世界は会話を消した。
事実も消した。
でも。
感情は完全に削れなかった。
「アスター」
「……なんだ」
「私、何か忘れてる?」
昨日と同じ問い。
でも、今日は違う。
今日は――
彼女の方が、失ったことを感じている。
「もしさ」
スズランは空を見る。
「本当にここで誰かと話してたなら」
少し笑う。
「その人、今もここにいる気がする」
視線が、重なる。
逃げられない。
「……いるよ」
気づけば、言っていた。
「いた」
世界が、軋む。
遠くで、金属が歪むような音。
スズランの瞳が揺れる。
「やっぱり?」
嬉しそうに言う。
「なんかさ、アスターだと思ってた」
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
――図書室。
窓際。
本を読むスズラン。
その映像が、急に薄れる。
代わりに、夕焼け。
フェンス。
笑い声。
二つの記憶が衝突する。
「……っ」
膝が揺れる。
「アスター!?」
支えられる。
温度がある。
本物だ。
「思い出そうとすると、頭痛い」
スズランが小さく言う。
「なんでだろ」
ノート。
確認しなければ。
でも怖い。
「ねえ」
彼女は真剣な目で言う。
「私たち、昨日ここにいた?」
世界が、答えを待っている。
肯定すれば、整合性がさらに崩れる。
否定すれば、彼女の“温度”を切り捨てる。
風が止まる。
屋上が静まる。
遠くでチャイムが鳴る。
時間だけが、普通に進む。
ノートは、まだ閉じられたまま。
残り三回。
使えば、固定できるかもしれない。
でも。
固定した瞬間、
別の何かが消える。
「……スズラン」
喉が震える。
彼女の目は、まっすぐだ。
忘れているはずなのに、
ちゃんとここにいる。
世界が削っても、
彼女は“感じて”しまう。
それが救いか、破滅か。
まだ、わからない。

