その日は、何も変わらない朝だった。
教室はいつも通り騒がしくて、
廊下には寝不足の声が漂っていて、
スズランは、いつも通りの顔で笑っていた。
――だからこそ。
アスターは、朝からずっと落ち着かなかった。
ノートを開かなくても、わかる。
空気が、薄くひび割れている。
嫌な予感は、当たる。
それが、今までの経験だった。
「ねえアスター、今日放課後――」
スズランが話しかけてくる。
その瞬間。
視界が、歪んだ。
ほんの一瞬。
でも、確かに見えた。
スズランの背後。
黒い糸のようなものが、床に向かって垂れている。
――フラグだ。
今までで、いちばんはっきりとした。
「……スズラン」
「え?」
「今日は、まっすぐ帰れ」
言葉が、強くなりすぎた。
「え、なに、急に」
「寄り道しないで、誰とも話さず、階段を使わず、エレベーターも使うな」
「ちょ、ちょっと待って?」
スズランが目を丸くする。
「なにそれ、どうしたの?」
説明できない。
説明したら、壊れる。
でも、言わなきゃ、間に合わない。
「……理由は、あとで話す」
「あとでって……」
困惑する顔。
それでも、どこか真剣な空気を察したのか、頷いた。
「……わかった。今日は変なことしない」
それだけで、十分なはずだった。
はずだったのに。
●
事故は、放課後に起きた。
体育館の裏。
誰もいないはずの、用具倉庫の前。
スズランがそこにいたのは、
ただの偶然だった。
落とし物を届けようとしただけ。
たったそれだけ。
鍵のかかっていない扉を開けた瞬間、
天井の棚が、わずかにずれた。
古い金属製のラック。
積み上げられたバスケットボールのケース。
ガタン、と音がしたときには、もう遅い。
「――っ!」
倒れてくる。
重い影が、スズランの視界を覆う。
死ぬ、と思った。
でも。
次の瞬間、
誰かに腕を掴まれて、引き倒された。
床に転がる衝撃。
直後に、背後で金属が砕ける音。
ガシャアアアン、と。
息が、できない。
「……っ、……っ」
「スズラン!」
声が震えている。
アスターの声だ。
顔を上げると、
彼は青ざめた顔で、スズランを抱き寄せていた。
すぐ隣に、
倒れた棚と、散乱した器具。
もし、あと一歩でも遅れていたら。
もし、腕を引かれていなかったら。
――死んでいた。
その事実だけが、はっきりとわかった。
「……どうして、ここに」
スズランが震える声で聞く。
アスターは、答えない。
答えられない、というより、
答えるつもりがない顔だった。
それが、何より怖かった。
「……ねえ」
スズランは、アスターの制服を掴んだ。
「これ、偶然じゃないよね?」
問いは、静かだった。
でも、もう逃げられない種類の声だった。
「……私、なにかに」
喉が震える。
「……殺されかけた?」
アスターの目が、わずかに揺れた。
その反応が、答えだった。
スズランの背筋が、冷たくなる。
そして同時に、
胸の奥で、何かが静かに怒り始めた。
「……じゃあ」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「なんで、
あんたは……前から知ってた顔してるの?」
アスターは、答えない。
否定もしない。
ただ、スズランを強く抱き寄せるだけだった。
守るように。
隠すように。
その腕の中で、スズランは確信する。
――これは、ただの事故じゃない。
――そして、アスターは、すべてを知っている。
その日の帰り道。
スズランの中で、ひとつの感情が、はっきりと形を持った。
恐怖ではなく、疑念。
そしてもうひとつ。
「知らされていないこと」への、静かな怒り。

