異変は、朝から始まっていた。
魔法学園《アヴィア》の中庭。
いつもなら軽やかに跳ねる噴水の水が、空中で凍りついたように静止している。
水滴ひとつひとつが、重力を忘れたかのように宙に浮かび、陽光を歪に反射していた。
「……止まってないか?」
「結界? いや、魔法陣も出てないぞ」
「冗談だろ……」
生徒たちのざわめきは、どこか現実感を欠いている。
どこか、他人ごとのような……
その中心で――
カケルは、ただ一人立ち尽くしていた。
彼の視界は、赤に埋め尽くされている。
――【時間流量 不均衡】
――【因果接続 部分断裂】
――【修正優先度 超過】
(……多すぎる)
これまで見てきた“エラー”とは、
”密度”が違う。
世界全体が、悲鳴を上げている。
頭が、内側から割れそうに痛む。
こめかみの奥で、何かが脈打っている。
昨夜。
フクロウが残した、白い羽根。
それに触れた瞬間――
《エラー検知》は、「使う力」ではなく「常態」になった。
見ようとしていないのに、勝手に見えてしまう。
閉じようとしても、視界が閉じない。
――【観測段階:第二層 移行】
「……え?」
声に出す暇もなかった。
世界が、軋んだ。
空間が、ほんのわずかにズレる。
人の動きが、数コンマ遅れて“再生”される。
まるで、通信制限がかかった動画のように……
(……時間が、ズレてる)
現実が、動画の編集ミスみたいに歪んでいる。
「カケル!」
スズメの声が届く。
だが――
一拍遅れて、同じ声が重なる。
「大丈夫か!? 顔色、やばいぞ!」
焦りも、心配も、
すべてが“二重”。
「スズメ……離れて……!」
叫んだ瞬間。
カケルの視界が、完全に裏返った。
●
世界は、
数値と線でできていた。
人間は、
行動予測の軌跡を背負った存在。
建物は、
耐久値と修正履歴の集合体。
空は、
果てのない処理領域として広がっている。
(……これが、第二層)
理解と同時に、
強烈な拒絶感がこみ上げる。
そして――
見えてしまった。
学園の地下深く。
意図的に塗りつぶされたような、
黒い“空白”。
――【未観測領域】
――【アクセス拒否】
(……あそこは、何だ)
その瞬間。
脳を直接殴られたような激痛。
「――っ!!」
膝から崩れ落ちる。
視界が明滅し、赤い警告が洪水のように押し寄せる。
――【観測過多】
――【人格安定率 低下】
――【感覚遮断 処理開始】
音が、消える。
色が、薄れる。
触覚が、水の中に沈むように遠のく……
(……やばい)
(このまま、見続けたら――)
――【第二層 暴走】
その表示が浮かんだ瞬間。
世界の“修正”が、カケルを中心に発動した。
時間が、巻き戻る。
噴水の水が逆流し、割れた石畳が、何事もなかったように元に戻る。
人々の位置、立ち位置、視線の向き――
すべてが、強制的に再配置される。
「な、何が……!?」
「今の……夢……?」
誰も、正確に覚えていない。
世界は、彼らの記憶ごと、修正した。
数人を除いて……
●
「……やはり、早すぎたか」
黒いローブが、視界に差し込む。
カラスが、地面に倒れたカケルを見下ろしていた。
「聞け、カケル」
耳は、ほとんど機能していない。
にも関わらず、カラスの言葉はカケルの意識に直接注ぎ込まれていった。
「今のお前は――世界にとっての“危険物”だ」
冷たい断定。
「第二層は、構造そのものを見る段階だ。本来、人間が触れていい領域じゃない」
カラスが指先で空をなぞる。
一瞬だけ。
“線”が、可視化される。
「このまま行けば、お前は――”観測者”ではなく、”修正対象”になる」
それはつまり――
(……消される)
その恐怖が、はっきりと形を持った、そのとき。
「――それは、あなたの都合でしょう」
凛とした声。
白い影が、カラスの前に立つ。
シラサギだった。
「彼は、選ばれた。それを“エラー”として処理するのは、間違っている」
カラスは、ほんの一瞬だけ目を細める。
「……お前も、どこまで知っている?」
「十分すぎるほどに」
二人の間で、空間そのものが軋む。
だが――
カケルの意識は、そこで途切れた。
●
夢か、意識の底か。
そこには、巨大な鳥籠があった。
無数の世界が、羽根のように吊り下げられている。
そして中央。
月のような目を持つ存在――
フクロウが、静かにこちらを見ていた。
「第二層に到達したか、観測者」
声に、ほんのわずかな感情。
「想定より、ずっと早い」
「……俺は……どうなる……?」
「二つに一つだ」
淡々と。
「壊れるか――それとも、境界を越えるか」
鳥籠の鍵が、金属音を立てて揺れた。
「次に目覚めたとき、君はもう“普通の生徒”ではいられない」
闇が、閉じる。
●
目を覚ましたとき、カケルは医務室のベッドにいた。
耳は、ほとんど聞こえない。
だが――
視界だけが、異様なほど澄んでいる。
世界が、くっきりと輪郭を持って見える。
ステータスウィンドウが、静かに開いた。
――【観測段階:第二層 固定】
――【不可逆変化:一部受理】
最弱の鳥は、もう戻れなくなった。
だが同時に――
この世界が、”檻の中”にあるという事実を、はっきりと見てしまった。
