――世界は、完璧ではない。
それどころか。
最初から、壊れかけている。
魔法学園《アヴィア》の医務室前。
白い扉の前で、シラサギは足を止めた。
この向こうで、カケルは眠っている。
第二層に到達し、いくつかの感覚を失い、それでもなお――
“観測者”として世界に固定された少年。
(……早すぎる)
胸の奥で、小さく、だが確かな痛みが広がる。
彼女は静かに目を閉じた。
思い出すのは、まだこの学園に入る前――
いや。
この世界に生まれ落ちた“直後”のこと。
●
シラサギは、普通の人間ではない。
それは比喩でも、自嘲でもない。
事実として、彼女は“完全な人間”として生成されていない。
彼女が目を開いた瞬間。
世界はすでに、構造として理解可能なものだった。
地面の下に流れる因果。
空に重なった時間層。
魔法という名で隠された、演算と補正の網。
世界は、層でできている。
表層――
人々が笑い、泣き、「現実」と呼ぶ場所。
中層――
魔法、因果、時間が調整される領域。
深層――
管理者たちが触れる、世界の骨組み。
そしてさらに奥。
設計段階で“見なかったこと”にされた領域。
(フクロウ……)
(あなたたちは、そこを隠している)
彼女に与えられたスキルは、《同調》。
世界に溶け込み、“正しい存在”として振る舞う能力。
違和感を消し、ズレを感じさせず、常に最適解を選び続ける力。
だから彼女は――
首席であり、優等生であり、誰からも疑われない。
だが、それは祝福ではない。
《同調》の本質は、世界の意志に逆らえないということ。
修正命令が下れば、理由を考える前に、身体が従う。
(だから、私は……)
シラサギは、そっと拳を握りしめた。
自分が“選ぶ側”に立てないことを、誰よりも知っていた。
●
初めてカケルを見たとき。
彼女は、一瞬で確信した。
(……この人は、外側の存在)
彼は、世界に馴染んでいない。
魔力の流れが、因果の接続が、わずかに、しかし決定的にズレている。
それはエラーではない。
観測点。
世界が自分自身を見つめ直すために、偶然を装って生み出した“目”。
(だから、あなたは選ばれた)
でも、それは同時に――
残酷な役割でもある。
観測者は、世界を知るほど、世界にとって“不都合”になる。
そして。
“不都合”は、必ず修正される。
(フクロウたちは……最初から、そこまで織り込んでいる)
●
「……私は、間違っていた」
医務室の前で、シラサギは小さく呟いた。
カケルを守ろうとした。
少しでも、穏やかな速度で真実に近づけようとした。
けれど結果は――
加速。
第二層。
構造を見る目。
それは、世界の“嘘”を否定する力。
(もう……戻れない)
医務室の中から、かすかに聞こえる、規則正しい呼吸。
それを確認してから、彼女は静かに背を向けた。
歩き出す。
足音は、いつもと変わらない。
向かう先は、学園地下。
封鎖区域。
誰にも知られていない、未観測領域の入口。
(カラス……)
(あなたは、どこまで知っている?)
●
シラサギは知っている。
この世界が、無数の“試作”の一つであることを。
安定しなければ、記録され、切り捨てられることを。
そして――
観測者が、一定の段階に達した世界は、必ず“選別”されることを。
(カケル……)
彼女は、初めて祈った。
世界のためでもなく、
管理者のためでもなく。
ただ、一人の少年のために。
シラサギは、優雅に――
だが確かに、翼をたたむ。
次に羽ばたくとき。
彼女はもう、
“従順な存在”ではいられない。
世界の真実を知る者は、いつだって――
世界の敵になる。
