勇者はもう地図を見なくなっていた。
どの通路を曲がればどこに出るか。
どの階段を降りればあの休憩室に着くか。
どの扉の先にあの魔族がいるか。
全部身体が覚えている。
「……慣れって怖いよな」
独り言のつもりだった。
「何が、でしょうか」
すぐ後ろから、静かな声が返ってきた。
「……ああ、メルキオか」
振り返ると、四天王の一人がいつものように立っていた。
今日は武装もしていない。ただの案内役の顔だ。
「いや……ここに来るのが、当たり前になってきてさ」
「それは……問題でしょうか」
「問題だろ」
勇者は苦笑する。
「俺、勇者なんだぞ。本来なら、お前らと戦う側だ」
メルキオはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙のあと、いつもの調子で言う。
「……それでも、本日もお越しくださったのですね」
「……まあな」
その言い方が、少しだけ胸に引っかかった。
お越しくださった。
歓迎の言葉だ。
もはや「侵入者」への扱いではない。
「今日の娯楽は?」
「特別な催しはございません」
「……そっか」
それでも、足は自然と前へ進いていた。
特別なことがなくても、ここに来る理由になってしまう。
廊下ですれ違う魔族たちが、軽く頭を下げる。
「お疲れさまです」
「本日も、お変わりありませんか」
「ゆっくりしていってくださいね」
もう驚きもしない。
ただ当たり前のやり取りとして受け取っている。
気づけば、あの休憩室に入っていた。
いつもの席。
いつもの温度。
いつもの飲み物。
「……落ち着くな」
ぽつりと漏れた声に、自分で少し驚いた。
落ち着く。
魔王城で。
「……なあ、メルキオ」
「はい」
「俺さ……」
言葉が、途中で止まった。
言おうとした内容を、脳が拒絶した気がした。
「……いや、なんでもない」
「……」
メルキオは何も言わず、ただそこにいた。
その沈黙が、やけに優しい。
だからつい、続けてしまった。
「……俺、本当は」
勇者は視線をカップに落としたまま言った。
「……そろそろ、帰らなきゃいけないんだよな」
その瞬間。
部屋の空気が、ほんのわずかに変わった。
重くなったわけでも、張り詰めたわけでもない。
ただ、なにかが静かに止まった気がした。
「……そうでございますね」
メルキオは、ゆっくりと頷いた。
「勇者様には、本来の使命がございます」
正しい言葉だった。
誰が聞いても正論だった。
だからこそ、胸に刺さった。
「……魔王を倒す、か」
「……はい」
「……お前の主君を、殺すってことだよな」
「……」
否定はなかった。
それが、いちばん苦しかった。
短い沈黙が流れた。
ただ同じ部屋で、同じ時間を過ごしている。
やがて、勇者が小さく笑った。
「……おかしいよな」
「何がでしょうか」
「ここに来る前より、ここに来てからの方が……」
言葉を探す。
「……人として、まともになった気がする」
魔族たちは怒鳴らない。
無理を強いない。
期待を押しつけない。
ただ、いるだけでいいと言ってくれる。
外の世界ではずっと言われてきた。
勇者なんだから。
英雄なんだから。
世界の希望なんだから。
ここではただ――
「お疲れさまです」と言われるだけだった。
「……俺さ」
少しだけ声が震える。
「……ここにいる時の方が、自分でいられるんだよ」
言ってしまった、と思った。
でも、もう止められなかった。
「……戦わなくていいし、強くなくてもいいし……」
「……ただ、座ってるだけで……許されてる感じがして……」
メルキオは、何も言わなかった。
否定も、慰めも、励ましもない。
ただ、そこにいる。
それが、いちばん残酷だった。
「……なあ」
勇者は顔を上げた。
「俺、どうすりゃいい?」
答えを求めてしまった。
メルキオは、ほんのわずかだけ目を伏せてから、静かに言った。
「……それは、私が決めることではございません」
「……そっか」
「……ただ」
珍しく、言葉が続いた。
「勇者様がここで過ごされた時間が……偽りだったとは思いません」
それだけだった。
肯定でも許可でもない。
でも、完全な否定でもなかった。
勇者はそれ以上何も言えなくなった。
しばらくしてから勇者は立ち上がった。
「……今日は帰るよ」
「……はい」
「……また来てもいいか?」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
メルキオは少しだけ目を見開いてから、いつものように静かに頭を下げた。
「……お待ちしております」
その言葉があまりにも自然で。
あまりにも優しくて。
胸の奥がひどく痛んだ。
魔王城の外。
久しぶりに出た空気は、少し冷たかった。
「……帰ってきたはずなのにな」
どこにも帰ってきた感じがしなかった。
振り返れば、あの城がある。
敵の城。
倒すべき場所。
でも――。
「……また来るんだろうな……俺」
そう呟いた声は、どこか確信めいていた。
そしてこの日。
勇者は初めて自覚した。
自分がもう、
「魔王城に通う側」になってしまっていることを。

