どうせ勝てないので、魔王は勇者を楽しませることにしました~第23娯楽~

どうせ勝てない魔王

 事件は昼間に起きた。

 だからこそ厄介だった。

 夜ではない。
 誰もが起きていて、誰もが活動していて、
 誰もが「何かを見た気がする」と言える時間帯だった。

 ●

「……誰か! 誰か来て!」

 中庭に少女の声が響いた。

 人が集まるのは一瞬だった。

 倒れていたのは小さな少年。
 顔色が悪く、肩で浅く息をしている。

「……どうしたの!?」
「……転んだのか!?」

 誰かが抱き起こす。
 誰かが水を持ってくる。
 誰かが名前を呼ぶ。

 幸い、命に関わるほどではなかった。
 しばらくして少年は目を覚まし、弱々しく周囲を見回した。

「……ごめん……」

 かすれた声だった。

「……魔王様の部屋の前で……」

 その言葉に空気が変わった。

「……え?」

 少年は戸惑いながら続けた。

「……なんか……頭が……ぐらってして……」
「……それで……階段……」

 つまり。

 魔王の私室近くで倒れ、そこから落ちた。

 ただそれだけのことだった。
 本来なら、「事故」で済む話だった。

 だが――

 ●

「……でも、おかしくない?」

 誰かが言った。

「……魔王様の部屋の近くって、何か……」
「……あそこ、空気ちょっと重いよね……」

 最初は、ただの感想だった。

 だが、誰かが頷く。
 さらに誰かが言葉を重ねる。

「……確かに……」
「……前からなんか近寄りにくかったかも……」

 事実ではない。
 だが、「そう言われるとそうかもしれない」という曖昧な感覚は、人の中で簡単に育つ。

 やがて、言葉が変わり始めた。

「……魔王様の“力”って……」
「……私たち人間には……影響あるんじゃ……」

 そしてついに、誰かが言った。

「……あの子、魔王様のせいで倒れたんじゃないの?」

 その瞬間。

 何かが決定的に崩れた。

 ●

 噂は、風よりも速かった。

 「魔王の部屋の前で倒れた子がいる」
 「魔王の魔力にやられたらしい」
 「やっぱり危険だったんだ」
 「信じてたのに」

 事実は歪められていく。
 誰かが嘘をついたわけではない。
 ただ、「不安」が言葉を選び始めただけだった。

 レイはそれを聞いた瞬間、血の気が引いた。

「……違うだろ……」

 思わず呟いた声は、誰にも届かない。

 あの少年は、ただ階段で足を踏み外しただけだ。
 それを、誰よりも近くで見ていたのに。

 だが。

「……でも実際……」
「……もしものこともあるし……」

 そんな言葉が、すでに周囲では当たり前のように交わされていた。

 ●

 魔王はその日の夕方になって初めて、事件のことを知った。

 報告に来た魔族の声が、いつもより硬い。

「……その、城内で……騒ぎが……」
「……何があったのですか?」
「……子供が……怪我を……」

 魔王はすぐに立ち上がった。

「……今、どこに?」
「……治療は……すでに……命に別状は……」

 その説明の途中で、魔族が言いづらそうに言葉を続けた。

「……その……」
「……魔王様の……せいだと……言われております……」

 一瞬、魔王は何も言えなかった。

「……俺の……せい?」

 その言葉は、問いというより、確認だった。

 だが、答えは返ってこなかった。
 返せる者がいなかった。

 沈黙が、すべてを語っていた。

 ●

 その夜。

 魔王はひとりで城内を歩いていた。

 すれ違う人々は、深く頭を下げる。
 だがその動作には、どこか距離があった。

 以前のような、無意識の信頼ではない。
 「そうするべきだからそうしている」という、義務のような態度。

 視線を合わせない者。
 言葉を交わそうとしない者。
 気まずそうに、足早に去っていく者。

 ……分かってしまった。

 もう、自分は「居場所の中心」ではない。

 疑われている。
 恐れられている。
 そして、避けられ始めている。

 ●

 城の外れ。

 暗がりの中で、2つの影が小さく息を吐いた。

「……うまくいったな」
「ああ。“事故”ひとつで、ここまで揺れるとは」

「人間も魔族も結局は同じだ」
「信じたいくせに疑う理由を探している」

 片方が、静かに笑った。

「……これで、討伐部隊が来た時……」
「ああ。“魔王を守ろう”なんて空気は、もう生まれない」

 ●

 その頃、メルキオはひとり、魔王の部屋の前に立っていた。

 扉の向こうから、気配は感じる。
 だが、声をかけることができなかった。

 今、自分が言葉をかければ、
 それすらも「魔王側の人間」と見られる。

 それを、魔王自身が一番理解している。

 だからこそ――

「……最も残酷な段階に入りましたね……」

 居場所は、まだある。
 城も、人も、存在している。

 だが。

 「信じる」という土台だけが、
 確実に、静かに、崩れ始めていた。

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