事件は昼間に起きた。
だからこそ厄介だった。
夜ではない。
誰もが起きていて、誰もが活動していて、
誰もが「何かを見た気がする」と言える時間帯だった。
●
「……誰か! 誰か来て!」
中庭に少女の声が響いた。
人が集まるのは一瞬だった。
倒れていたのは小さな少年。
顔色が悪く、肩で浅く息をしている。
「……どうしたの!?」
「……転んだのか!?」
誰かが抱き起こす。
誰かが水を持ってくる。
誰かが名前を呼ぶ。
幸い、命に関わるほどではなかった。
しばらくして少年は目を覚まし、弱々しく周囲を見回した。
「……ごめん……」
かすれた声だった。
「……魔王様の部屋の前で……」
その言葉に空気が変わった。
「……え?」
少年は戸惑いながら続けた。
「……なんか……頭が……ぐらってして……」
「……それで……階段……」
つまり。
魔王の私室近くで倒れ、そこから落ちた。
ただそれだけのことだった。
本来なら、「事故」で済む話だった。
だが――
●
「……でも、おかしくない?」
誰かが言った。
「……魔王様の部屋の近くって、何か……」
「……あそこ、空気ちょっと重いよね……」
最初は、ただの感想だった。
だが、誰かが頷く。
さらに誰かが言葉を重ねる。
「……確かに……」
「……前からなんか近寄りにくかったかも……」
事実ではない。
だが、「そう言われるとそうかもしれない」という曖昧な感覚は、人の中で簡単に育つ。
やがて、言葉が変わり始めた。
「……魔王様の“力”って……」
「……私たち人間には……影響あるんじゃ……」
そしてついに、誰かが言った。
「……あの子、魔王様のせいで倒れたんじゃないの?」
その瞬間。
何かが決定的に崩れた。
●
噂は、風よりも速かった。
「魔王の部屋の前で倒れた子がいる」
「魔王の魔力にやられたらしい」
「やっぱり危険だったんだ」
「信じてたのに」
事実は歪められていく。
誰かが嘘をついたわけではない。
ただ、「不安」が言葉を選び始めただけだった。
レイはそれを聞いた瞬間、血の気が引いた。
「……違うだろ……」
思わず呟いた声は、誰にも届かない。
あの少年は、ただ階段で足を踏み外しただけだ。
それを、誰よりも近くで見ていたのに。
だが。
「……でも実際……」
「……もしものこともあるし……」
そんな言葉が、すでに周囲では当たり前のように交わされていた。
●
魔王はその日の夕方になって初めて、事件のことを知った。
報告に来た魔族の声が、いつもより硬い。
「……その、城内で……騒ぎが……」
「……何があったのですか?」
「……子供が……怪我を……」
魔王はすぐに立ち上がった。
「……今、どこに?」
「……治療は……すでに……命に別状は……」
その説明の途中で、魔族が言いづらそうに言葉を続けた。
「……その……」
「……魔王様の……せいだと……言われております……」
一瞬、魔王は何も言えなかった。
「……俺の……せい?」
その言葉は、問いというより、確認だった。
だが、答えは返ってこなかった。
返せる者がいなかった。
沈黙が、すべてを語っていた。
●
その夜。
魔王はひとりで城内を歩いていた。
すれ違う人々は、深く頭を下げる。
だがその動作には、どこか距離があった。
以前のような、無意識の信頼ではない。
「そうするべきだからそうしている」という、義務のような態度。
視線を合わせない者。
言葉を交わそうとしない者。
気まずそうに、足早に去っていく者。
……分かってしまった。
もう、自分は「居場所の中心」ではない。
疑われている。
恐れられている。
そして、避けられ始めている。
●
城の外れ。
暗がりの中で、2つの影が小さく息を吐いた。
「……うまくいったな」
「ああ。“事故”ひとつで、ここまで揺れるとは」
「人間も魔族も結局は同じだ」
「信じたいくせに疑う理由を探している」
片方が、静かに笑った。
「……これで、討伐部隊が来た時……」
「ああ。“魔王を守ろう”なんて空気は、もう生まれない」
●
その頃、メルキオはひとり、魔王の部屋の前に立っていた。
扉の向こうから、気配は感じる。
だが、声をかけることができなかった。
今、自分が言葉をかければ、
それすらも「魔王側の人間」と見られる。
それを、魔王自身が一番理解している。
だからこそ――
「……最も残酷な段階に入りましたね……」
居場所は、まだある。
城も、人も、存在している。
だが。
「信じる」という土台だけが、
確実に、静かに、崩れ始めていた。

