その日は、雨だった。
放課後の校舎は湿った匂いがして、
足音がやけに大きく響く。
スズランは、図書室の奥にいた。
人気のない席。
窓の外では、雨粒がガラスを叩いている。
目の前の机には、一冊のノート。
――ダリアが、置いていったもの。
「……見ていいって言われても」
独り言が、自然と漏れる。
触れない。
開かない。
それでも、存在感だけで十分だった。
スズランは、アスターの顔を思い出す。
授業中の横顔。
ノートに向かうときの、硬い表情。
「関わるな」と言ったときの、あの声。
(……あれは、拒絶じゃない)
そう、分かってしまった。
あれは――
必死な制止だ。
スズランは、深く息を吸う。
(アスターは、何を救おうとしてる?)
最初は、誰かの命だと思っていた。
でも、それだけじゃない。
ダリアの言葉が、蘇る。
――助けると、世界が歪む。
――帳尻は、必ず合わされる。
つまり。
アスターは、“救えないこと”を知っている。
それでも、選び続けている。
(……じゃあ)
スズランの胸が、静かに痛む。
(彼が守ろうとしてるのって)
ノートの名前。
日付。
短いメモ。
そこに並ぶのは、
「救えた結果」じゃない。
救わなかった結果を、引き受けた痕跡だ。
「……そっか」
小さく、呟く。
「命、じゃないんだ」
アスターが救おうとしているのは、
単純な“生き死に”じゃない。
選ばなかった未来。
見捨てた可能性。
そして――
自分が壊れないための、最低限の線。
(全部救えないって、分かってる)
(だからせめて――)
自分が“選んだ”と、言える形にしたい。
偶然じゃない。
見なかったふりでもない。
「知ったうえで、決めた」と言えるように。
そのための、ノート。
スズランは、目を閉じる。
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
(……それ、優しさじゃん)
歪んでる。
間違ってる。
危険だ。
それでも。
(独りで背負うには、重すぎる)
だから、突き放した。
だから、関わるなと言った。
守ろうとしたのは、
スズランじゃない。
自分が、スズランを選んでしまう未来だ。
選んだら、
その先で何が歪むか分からない。
だから、最初から選択肢から外した。
「……ばか」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
そのとき、背後で椅子がきしんだ。
「理解、した?」
振り返ると、ダリアが立っていた。
いつもの笑顔。
でも、今日は少しだけ静か。
「……うん」
スズランは、頷いた。
「アスターは」
言葉を選びながら、続ける。
「誰かを救おうとしてるんじゃない」
ダリアの目が、細くなる。
「ほう?」
「自分が“選ばなかったこと”に、潰されないようにしてる」
沈黙。
雨音だけが、二人の間を埋める。
ダリアは、ゆっくり笑った。
「正解」
楽しそうでも、皮肉でもない。
「それに気づくの、早かったね」
「……だから」
スズランは、視線を落とす。
「放っておけない」
ダリアは、肩をすくめた。
「じゃあ、もう分かってるでしょ?」
「……なにを」
「君が、これからどこに立つか」
スズランは、答えなかった。
でも、迷いはもうなかった。
(……一人にさせない)
それが、正しいかどうかは分からない。
でも。
「ねえ、ダリア」
顔を上げる。
「次は、何を選ばされてるの?」
その問いに、
ダリアの笑みが、少しだけ深くなる。
「いいね」
「やっと、そこまで来た」
ノートに、指先が触れそうになる。
「じゃあ次は」
囁くように言った。
「救わない選択肢の話をしよっか」
雨は、まだ止まなかった。
でもスズランは、もう分かっていた。
ここから先は、
戻る道なんて、最初から用意されていない。
