放課後の教室は、思ったより静かだった。
窓の外では部活の掛け声が遠く響いている。
いつもなら、俺はこの時間を狙って教室を出る。
――ノートを書き換える時間が、必要だから。
なのに今日は、席を立てずにいた。
視線を感じている。
背中に、ずっと。
「……帰らないの?」
静かな声だった。
振り返ると、ダリアが机に腰掛けてこちらを見ていた。
机の上には何もない。カバンも閉じたまま。
「……今日は部活、ないのかよ」
「うん。サボり」
あっさり言う。
それがダリアらしくて、余計に怖い。
「珍しいな」
「珍しくしたの。今日は」
言葉の選び方が、妙に意図的だった。
俺はノートの入ったカバンに、無意識に指をかけてしまう。
――しまった。
その動きを、ダリアが見逃すはずがない。
「……それ、大事なもの?」
きた。
「別に」
「ふうん」
ダリアは机から降りて、ゆっくりと俺の方に歩いてくる。
足音がやけに大きく聞こえる。
俺は席に座ったまま、立てない。
近づく距離が、怖いんじゃない。
近づくことで、ノートの存在が現実になることが、怖い。
「最近さ」
「……なに」
「アスター、ずっと何か隠してるよね」
心臓が、嫌な音を立てた。
「別に」
「嘘」
即答だった。
「嘘つくの下手だもん。昔から」
……知ってる。
幼なじみだから。
俺の癖も、沈黙の意味も、考え込む時の視線の動きも。
だからこそ、最悪だった。
「最近、事故が減ってる」
「……は?」
「私が知ってる限りでね」
ダリアの視線が、カバンへ落ちる。
「クラスの人たち、前はもっと……“運が悪かった”」
「……偶然だろ」
「偶然って便利な言葉だよね」
ダリアは、俺の机の前で立ち止まった。
逃げ道は、もうない。
「ねえアスター」
声が、優しい。
だから余計に、残酷だった。
「もし、誰かの未来が見える人がいたら……どうすると思う?」
「……知らねぇよ」
「助ける?」
その問いは、軽すぎた。
でも、重すぎた。
「……当たり前だろ」
反射で答えてしまった。
しまった、と同時に思った。
ダリアの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
「……やっぱり」
「な、なにがだよ」
ダリアは俺の机に手を置く。
距離が、近すぎる。
「アスター、最近ずっと“間に合ってる”んだよ」
「……」
「事故の前に、声をかける。トラブルの前に、動く。偶然にしては、精度が高すぎる」
喉が、動かない。
「……それで?」
なんとか絞り出した。
ダリアは、少しだけ首を傾げて言った。
「だから思ったの」
そして、俺のカバンに視線を落とす。
「それ……ノートでしょ?」
世界が、一瞬止まった。
風の音も、廊下の足音も、全部が遠のく。
「……何言ってんだよ」
声が、自分でもわかるほど、震えていた。
ダリアは笑わない。
冗談っぽくもしない。
ただ、静かに言った。
「見せて」
「……」
「信じたいから」
その言葉が、一番きつかった。
「見せてくれたら、何も聞かない。
もし違うなら、私が謝る」
俺の手は、カバンの取っ手を強く握りしめていた。
逃げればいい。
拒否すればいい。
今までだって、そうしてきた。
――でも。
このまま誤魔化し続けたら、ダリアはもっと深く疑う。
もっと鋭く探る。
もっと近づいてくる。
そしていつか、スズランも。
教師も。
クラス全体も。
「……少しだけだぞ」
自分でも、信じられない言葉が口から出た。
ダリアの目が、わずかに揺れた。
「……うん」
俺はゆっくりと、カバンのファスナーを開ける。
中に入っている、黒いノート。
表紙には、何も書いていない。
でも、そこに書かれている中身は――
ダリアは、そっとそれを手に取った。
ページを、めくる。
数秒。
たったそれだけの時間で。
ダリアの顔から、すべての血の気が引いた。
「……なに、これ」
声が、震えている。
当然だ。
普通の人間が、読める内容じゃない。
名前。
日時。
事故の内容。
回避方法。
失敗した場合の結果。
――人の「死」が、淡々と記録されたノート。
「……これ、全部……本当なの?」
俺は、答えなかった。
答えなくても、伝わってしまったから。
ダリアの手が、ノートを握りしめる。
「……じゃあ」
息を飲む音。
「……私も……?」
そのページは、開かれていなかった。
でも、俺は知っている。
ダリアの名前は――
もう、かなり上の方に書いてある。
沈黙が、教室に落ちる。
破裂しそうな静けさの中で、ダリアが小さく言った。
「……ねえ、アスター」
「……」
「これ、ひとりで抱えてたの?」
責める声じゃなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、痛そうな声だった。
「……なんで、誰にも言わなかったの」
その問いに、俺は答えられなかった。
答えたら、たぶん、全部壊れる。
俺たちの関係も。
今まで保ってきた「秘密」も。
そして――この世界のバランスも。
ダリアは、ノートを胸に抱えたまま、呟いた。
「……これ、もう……戻れないやつだよね」
その一言が、すべてだった。
――ああ。
やっぱり。
触れた時点で、世界は壊れ始める。
