梅雨が終わりかけたころ、クラスで席替えが行われた。
正直に言えば、白石の隣を離れるのは惜しかった。
けれど同時に、これ以上変な空気になる前に距離ができるなら、それはそれで助かる――そう思っていた。
……はずだった。
「ねえ」
休み時間、背後から声をかけられる。
振り返る前から、誰の声か分かってしまうのが厄介だ。
案の定、白石だった。
クラス中の視線が一斉に集まる。
もう慣れた……とは言い難い。
「発表の資料、全然集まってないんだけど?」
「あ、あぁ……」
共同発表のやつか。
忘れていたわけじゃないが、進んでいるとも言えない。
「今週中にまとめたいから。今週末、また図書館で」
断定形だった。
拒否権は最初から存在していないらしい。
こうして俺は、二週連続で白石と図書館に通うことになった。
●
待ち合わせ場所に現れた白石は、白いワンピースを着ていた。
制服のときより、どこか柔らかい。
教室にいるときの“近寄りがたい美人”という印象が、少しだけ薄れている。
「……どうかした?」
見すぎていたらしい。
気づかれてしまった。
「いや、別に」
誤魔化すように視線を逸らすと、白石は何も言わず歩き出した。
図書館へ向かう途中、ふいに彼女が口を開いた。
「あのゲームさ」
「……ゲーム?」
「ユイが主人公のやつ」
胸の奥が、わずかに反応した。
「私的には、ダリアがヒロインだと思うんだよね」
唐突すぎて、言葉が出てこない。
あのゲームを知っていることも、
キャラの名前がすらすら出てくることも、
なにより――
「ユイはスカーレット派だったよね」
いやいやいや。ユイって誰だよ。
困惑して白石を見ていると、
「……やっぱり鈍感だね」
それだけ言って、白石はすたすたと前を歩いていく。
「お、おい……!」
追いかけようとした瞬間、
「わっ……」
前を歩く白石が、縁石に足を取られた。
反射的に腕を掴んで引き寄せる。
一瞬、距離が近くなる。
「……ありがと」
小さく、照れたような声だった。
教室では見たことのない表情。
どこかぎこちなくて、
どこか普通で、
そして――やけに懐かしい。
「ところでさ」
白石は何事もなかったように、こちらを見た。
「少しは、思い出してくれた?」
「……何を?」
本気で分からない。
白石は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そっか」
その声は、どこか寂しそうだった。
数歩歩いたあと、彼女は立ち止まって、振り返る。
「じゃあさ」
軽い調子なのに、目だけがやけに真剣だった。
「これから、私のこと“コン”って呼んでくれない?」
「……コン?」
「うん。あだ名」
冗談なのか、本気なのか分からない。
「私は、キミのことをユイって呼ぶから」
心臓が、一拍遅れて強く打った。
「……それ、簡単に使っていい名前なのか?」
あの言い方。
あの記憶の断片。
白石の中で、ユイという名前が特別なものであることは、なんとなく分かっていた。
「いいの」
即答だった。
「むしろ、キミだからいい」
「……どういう意味だよ」
白石は一瞬だけ視線を逸らし、そしてこちらを見た。
「知りたい?」
空気が、変わった。
いつもの軽さは消えていて、
その目は、どこか決定的なものを突きつけてくる。
――これを聞いたら、もう戻れない。
そんな直感があった。
それでも。
「……知りたい」
白石はしばらく俺を見つめてから、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、連絡先教えて」
差し出されたスマホ。
断る理由なんて、最初からなかった。
連絡先を交換すると、白石は満足そうに頷いた。
「あとさ」
去り際、振り返って言う。
「あだ名、学校では呼ばないで。二人だけのときだけ」
「……なんで?」
「秘密ってやつ」
それだけ言って、白石――いや、コンは歩き去っていった。
こうして俺は、
“白石”というクラスのマドンナと、
“コン”というよく分からない少女の二つの顔を知ることになった。
そして同時に。
ユイという名前が、
ますます俺の中で、無視できないものになっていった。

